モンゴル文字
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モンゴル文字 | ||
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類型: | アルファベット | |
言語: | モンゴル語、エヴェンキ語 | |
時期: | 1208年-現在 | |
親の文字体系: | 原カナン文字 → フェニキア文字 → アラム文字 → シリア文字 → ソグド文字 → ウイグル文字 → モンゴル文字 |
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子の文字体系: | 満州文字 トド文字(en) ヴァギンターラー文字(en) |
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Unicode範囲: | U+1800-U+18AF | |
ISO 15924 コード: | Mong | |
モンゴル文字による「モンゴル」 |
モンゴル文字(蒙古文字)は、13世紀ごろウイグル文字から派生した文字で、主にモンゴル語を表記する。専ら縦書きされ、行は左から右へ綴られる(左縦書き)。現在は主に中華人民共和国内モンゴル自治区で使われている。
[編集] 歴史
モンゴル文字は、ウイグル文字そのものでモンゴル語を筆写していた時期の古典的な「ウイグル式モンゴル文字」と、子音や母音の文字の整備がより進んだ「現代モンゴル文字」の二種類に大別される。
[編集] モンゴル帝国時代の「モンゴル文字」
『元史』などが伝えるところによれば、1204年にチンギス・カンがナイマン王国を攻略したとき、捕虜となったナイマンの宰相でウイグル人であったタタトゥンガ(塔塔統阿)という人物がチンギスの詰問に答えて国璽と文字の効用を説いたことにより、モンゴルでも国事の遂行に印璽の使用するようになり、彼にモンゴル人の子弟にウイグル文字を習わせた、とされている。1222年にチンギス・カンの宮廷を訪れた丘処機が長生の術についてチンギスに講じた内容を、ウイグル人の書記がウイグル文字で記録していたという記事が『長春真人西遊記』にある。チンギス、オゴデイ、グユクの時代に活躍したウイグル人書記官チンカイはナイマン、ケレイト攻略以前にチンギスの幕下で活動しており、ナイマン攻略前後からモンゴルはウイグル文字と接触し、その存在を意識していた可能性は高い。1246年に即位したグユクがローマ教皇インノケンティウス4世に宛てたペルシア語による勅書がバチカンに現存するが、この書簡の書面にウイグル文字モンゴル語による銘文をもつ印璽が二ケ所捺されており、これが絶対年代が判明している最古のモンゴル語とモンゴル文字の資料となっている。(1226年頃にチンギス・カンの甥イェスンゲが射た遠矢の記録を記念したいわゆる「イェスンゲ紀功碑」が最古のモンゴル文字とされているが、記念碑の建立年代には異論もある)
モンゴル帝国および大元ウルスでモンゴル語の筆写に使用されていた、いわゆる「モンゴル文字」として知られている文字は、当時漢語では「畏兀兒文字」、同時代のイルハン朝などで書かれたペルシア語資料でも khaṭṭ-i Uyghrī (ウイグルの文字)と称されており、飽くまでも「ウイグル文字」であって「モンゴル文字」とは呼ばれていなかった。モンゴル語の筆写にはウイグル文字がそのまま使用されていたため、正書法もウイグル文字そのものであった。大元ウルスで「蒙古字」ないし「蒙古新字」と称されていたのは、パスパ文字である。
このようにモンゴル語を筆写するために書かれた当時のウイグル文字を、敢えてウイグル語文書などのウイグル文字と区別するために「ウイグル式モンゴル文字」と称される場合もある。
なおモンゴル語の表記には歴史上、別系統の文字も数種類使用されており、現在モンゴル国ではキリル文字で書くのが一般化しているが、近年モンゴル文字の使用が見直されてきている。
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