マルクス・フリウス・カミルス
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マルクス・フリウス・カミルス(紀元前446年 - 紀元前365年、Marcus Furius Camillus)は古代ローマの軍人・政治家。高潔で優れた武将であり、独裁官に五回推薦された。ローマ史上屈指の名将。ロムルスに次ぐローマ第二の創建者と謳われる。
[編集] 追放まで
紀元前396年、カミルスはローマ軍を率いてローマから程近いウェイイというエトルリア人の町を攻略した。ローマ市民たちはローマよりも都市設備の整ったウェイイに首都を遷そうと言ったが、カミルスは「ローマを捨てることはローマの神々を捨てることであり、ローマを離れれば我々はローマ市民ではなくなる」と言って真っ向からこれに反対した。そこで市民たちはカミルスにあらぬ罪状をかけて追放しようとした。
これを知ったカミルスは友人たちに相談したが、友人たちは「君に課せられる罰金を集める手伝いはは出来そうだが、追放に反対する票を集めることは出来そうにない」と言った。カミルスは指揮官としては非常に有能であったが、強引で物事をはっきり言う男であった。ウェイイ攻略戦の際にはローマの有権者たちからなる軍団にローマ軍初と言われる冬営を強いており、ウェイイ攻略戦による凱旋式は派手に行いすぎ、別の戦役では兵士たちが略奪をしたがっている時に無血開城させてしまうなど、市民からの人気が非常に低かったのである。当時、自らローマを去った人間に対しては、その罪を問わないとする風習があったので、カミルスはローマを去った。
[編集] ケルト襲来
しかし紀元前387年、カミルスがローマを去ってすぐに、ローマはケルト人の襲来をうけて滅亡寸前に追い込まれる。ローマ市民たちはこれを神の怒りであると考え、カミルスの言った通りになった事を後悔した。カミルスはケルト襲来を受けて散り散りになったローマ市民を取りまとめローマに向かって進軍する。そのころローマの一角に立てこもった市民たちはケルト人の王に身代金と引き換えに兵を撤退させるように交渉をしていた。ケルト人は秤に細工してより儲けようと図ったが、それに気がついたローマ人がそれを指摘すると「敗者に災いあれ。」と答えた。そこに駆けつけたカミルスは「ローマは金ではなく、剣でお返しする」と告げて戦闘が開始され、ケルト人を散々に打ち破った。この時のカミルスの言葉はその後ローマの国防の指針となり、以後ドミティアヌス帝の時代に至るまでの約400年間、ローマが身代金と引き換えに捕虜の解放を要求した例はない。その後カミルスは独裁官に任命されてローマ復興を任された。
ローマがケルト人の襲来を受けて荒廃すると、ローマを中心とするラテン同盟の結束にもひびが入り、各地でローマに叛旗を翻す部族・都市国家が続出したが、カミルスは20年かけて周囲の反乱を全て鎮定し、四度もの凱旋式を挙げる名誉をうけた。