ポール・リッカ
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ポール・"ザ・ウェイター"・リッカ(Paul "The Waiter" Ricca、1897年 - 1972年10月11日)はシカゴ・アウトフィットのボスだった人物。本名はフェリーチェ・デルチア(Felice DeLucia)。イタリア・ナポリ出身。
1915年、フェリーチェ・デルチアは初めての殺人を犯して懲役2年の刑に服役し、犯罪者の階段を登り始めた。この裁判で自分に不利な証言をした男を殺害した直後の1920年8月10日、デルチアはアメリカ・ニューヨークへと渡った。
渡米後、デルチアは名前を"ポール・リッカ"と変え、最初の頃は、ジェンナ兄弟の下で酒の密売に関わっていたが、まもなくシカゴに移った。そして、”ダイヤモンド・ジョー”・エスポジートのナイトクラブ「ベラ・ナポリ」でウェイターの仕事を得た。彼のニックネームである「ウェイター」はここから由来している。
リッカのファーストネームであるポールはレストランに来ていた多くのギャングの名前と同じであったからか、まもなく彼もウェイターを辞めて一人前のギャングの仲間入りをした。そして、直ぐに彼はボスのフランク・ニッティの副ボスになり、ロサンゼルスのジョン・ロッセーリらと共にハリウッドの映画産業へ侵入していった。 RKO、パラマウント・ピクチャーズ、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、そして20世紀フォックスなど主な映画スタジオは彼らによって脅迫されていた。
構成員のウィリアム・バイオフの裏切りによりニッティらの映画界への介入行為が明るみとなった直後の1943年3月18日、ボスのニッティの自宅においてリッカらは会議を行った。その会議において組織の為にボスのニッティが引退することが話し合われた(ニッティは極度の閉所恐怖症であり、その為に彼は刑務所の牢獄に監禁されるのを恐れていた)。この提案を聞いたニッティは、会議の為に集まったメンバーらを家から追い出した。その翌日、ニッティは自宅近くの鉄道操車場にて銃で自殺を遂げた。そして、ポール・リッカが組織のボスを引き継いだ。
1943年12月30日、連邦陪審はリッカと彼の仲間らに対し有罪の判決を下し、リッカには懲役10年の判決が言い渡された。だが、マレー・ハンフリーズがハリー・トルーマン政権の司法長官を務めていたトム・C・クラークに電話にて早期釈放を呼びかけた結果、リッカとロッセーリは3年で釈放された。だが、リッカはその後もボスとして組織を操作し続けるのが困難となり、1950年にボスの座をトニー・アッカルドへ移譲した。ちなみに、ニッティ自殺の原因となったウィリアム・バイオフは1955年11月4日に爆弾で殺害されている。
その後、リッカは1972年10月11日に死ぬまでシカゴ・アウトフィットの相談役として存在し続けた。墓には、"ポール・デルチア"として埋葬されている。
[編集] 外部リンク
- Paul Ricca - Find A Grave