ヘザルフェン・アフメト・チェレビ
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ヘザルフェン・アフメト・チェレビ(Hezârfen Ahmet Çelebi、1609年?/1623年? - 1640年)はオスマン・トルコの発明家。17世紀、イスタンブルで、人工の翼を使って飛行に成功した。
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[編集] 飛行
17世紀の旅行家エヴリヤ・チェレビ(Evliyâ Çelebi)が記録した話によると、ヘザルフェン・アフメト・チェレビは1630年から32年にかけて、人工の翼を用いてイスタンブルのガラタ塔(Galata Tower)の上から滑空し、約3000メートルを飛んで辛うじてボスポラス海峡を越え、ユスキュダルのドアンヂュラル(Doğancılar)広場へ成功裏に着陸した。[1] 他の多くの分野にまたがる深い知識のため、エヴリヤ・チェレビはアフメト・チェレビに"Hezârfen"、すなわち「千の学問」(博学者)の称号を与えている。スルタンのムラト4世は褒美としてアフメト・チェレビに黄金の財布を与えたが、後に彼はチェレビをアルジェリアへ流刑にしている。チェレビはその地で死んだ。
彼と同様の飛行を試みたことが知られている人物には、アッバース・イブン・フィルナス(Abbas Ibn Firnas、9世紀スペインのムーア人国家出身の学者、飛行家)やマルムズベリーのエリマー(Eilmer of Malmesbury、12世紀イングランドの修道士)などがいる。ただしこの二人は着陸時に負傷を免れなかった。
ヘザルフェンの兄弟、ラガリ・ハサン・チェレビもまた飛行を(火薬ロケットを使って)行なったと言われる。彼らの飛行成功の情報はすぐに(遅くとも1638年には)イングランドに伝わった。ジョン・ウィルキンズが1638年の著書"Discovery of a World in Moone"でそれについて言及をしている。[2]
[編集] 大衆文化において
ヘザルフェン・アフメト・チェレビの偉業に関する、エヴリヤ・チェレビの報告は(10巻の著作中で)たったの3センテンスに過ぎない。しかしこの話はトルコにおいて広く普及している。イスタンブルにある三つの空港のうち一つは、「ヘザルフェン空港」を意味する名前である。そして映画"İstanbul Kanatlarımın Altında"(Istanbul Under My Wings, 1996)は、エヴリヤ・チェレビを語り手に、ヘザルフェン・アフメト・チェレビおよび兄弟ラガリ・ハサン・チェレビの人生と、17世紀初期のオスマン帝国社会を描いた作品である。
[編集] 関連項目
- ラガリ・ハサン・チェレビ - 彼の兄弟(原始的なロケットで飛行)
- ハング・グライディングの歴史(History of hang gliding)