フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン(Friedrich Wilhelm von Hohenzollern-Sigmaringen、1924年2月3日 - )は、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯家の子孫。ホーエンツォレルン侯家家長フリードリヒの長男で、1965年からホーエンツォレルン侯家の家長となっている。
全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・フェルディナント・ヨーゼフ・マリア・マヌエル・ゲオルク・マインラート・フィデリス・ベネディクト・ミヒャエル・フーベルト(Friedrich Wilhelm Ferdinand Joseph Maria Manuel Georg Meinrad Fidelis Benedikt Michael Hubert)。
フリードリヒ・ヴィルヘルムは1924年2月3日、フリードリヒとその妻であったザクセン王フリードリヒ・アウグスト3世の王女マルガレーテの間に第四子としてバーデン=ヴュルテンベルク州ブライスガウ=ホッホシュヴァルツヴァルト郡ウムキルヒ(Umkirch)のウムキルヒ城で生まれた。フライブルクで教育を受け、経営学の学士号を得た。1944年から翌1945年にかけてはゲシュタポによって一家は強制収容され、この間居城のジグマリンゲン城(Schloss Sigmaringen)は連合軍に追われたヴィシー政権のメンバーによって使用された。
フリードリヒ・ヴィルヘルムは1951年1月5日(民事婚)および2月3日(宗教婚)にライニンゲン侯女マルガリータ(1932年 - )と結婚式を行い、彼女との間に3男をもうけている。1965年2月6日に父が歿すると、フリードリヒ・ヴィルヘルムはホーエンツォレルン侯家の家長となった。
王制時に制定された1923年のルーマニア憲法の規定によれば、嫡出の男子も弟も叔父もいないミハイ1世の歿後、フリードリヒ・ヴィルヘルムは又従兄のミハイ1世から王位(王位継承権)を継承することになる。但しカロル2世の最初の結婚時に生まれた息子の家系も王位継承権を主張している。
[編集] 外部リンク
|
|