ピエール・ルイ・モーペルテュイ
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ピエール・ルイ・モーペルテュイ(Pierre-Louis Moreau de Maupertuis、1698年7月17日 – 1759年7月27日)はフランスの数学者、著述家である。『最小作用の原理』を最初に唱えたとされる他、地球の形状を調査するラップランド観測隊を指揮した。生物の進化論の分野でダーウィン以前に進化について述べた1人である。
サン・マロの豊かな商人の家に生まれた。家庭教師によって教育を受けた後、軍に入り騎兵隊に加わった。軍務の傍ら数学を学び数学者として評判になり、1723年に科学アカデミーの会員になった。1728年にはロンドンに渡り、王立協会の会員になりニュートンの重力理論をフランスに普及するのに貢献した。当時地球の形がニュートンの理論から導びかれる南北に扁平な楕円形状であるのか、それまでのジャック・カッシーニの子午線の測量からの南北に長い形状であるのかが論争されていた。その問題に決着をつけるために、1736年に赤道近くのペルーと極に近いラップランドに観測隊が組織され、モーペルテュイはラップランド隊の隊長を務めた。帰国後の1738年にSur la figure de la terre(『地球の形状について』)を発表した。この業績などにより評価され、1740年プロイセン王フリードリヒ2世にベルリンに招かれた。オーストリア継承戦争ではプロシア軍に加わり1741年のモルヴィッツの戦いでオーストリア軍の捕虜となったが釈放された。1742年にはパリに戻り科学アカデミーの会長になり、翌年アカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。1744年に再びベルリンに招かれ、1746年プロシア科学アカデミーの会長になった。七年戦争でフランスとプロシアが戦争になったことはモーペルテュイの立場を都合の悪いものにしたが、1757年に引退するまでその職にあった。1758年にバーゼルに移り、翌年没した。
『最小作用の原理』は1741年の論文Loi du repos des corpsや1744年の論文Accord de plusieurs lois naturelles qui avaient paru jusqu’ici incompatiblesに発表された。1751年にザムエル・ケーニッヒが最小作用の原理はすでにゴットフリート・ライプニッツによって1707年に発見されていたという異議を述べて論争になったが、モーペルテュイにプライオリティが認められた。また生物の進化に関して1752年の著書Venus physiqueや1754年の著書Systeme de la Natureで、進化論の先駆けとなる概念を述べたことが記録に残っている。
[編集] 関連項目
- モーペルテュイ(ピエール・ルイ・モーペルテュイにちなみ命名された小惑星)