ビリー・ミルズ
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獲得メダル | ||
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アメリカ合衆国 | ||
陸上競技 | ||
オリンピック | ||
金 | 1964 東京 | 男子10000m |
ビリー・ミルズ (William ("Billy") Mills、1938年6月30日-)は、アメリカ合衆国の陸上競技選手。1964年東京オリンピック男子10000mにおいて、オリンピック史上に残る大番狂わせにより金メダルを獲得した選手である。
目次 |
[編集] 生い立ち
ミルズはサウスダコタ州出身のオグララ・スー族のインディアンである。パインリッジインディアン保留地で育った。彼は12歳で親をなくし1人となる。
ミルズはハスケルインスティトゥートにいるとき競技をはじめた。ハスケルインスティトゥートとは現在のカンザス州ローレンスにあるハスケルインディアンネーションズ大学である。彼は、ボクシングと陸上を行っていたが、ボクシングをやめ陸上に集中することとした。
ミルズはカンザス大学に陸上で奨学金を得て入学。在学中に全米学生選手権のクロスカントリーを3度制し、1960年代にはビッグエイトクロスカントリー選手権の個人タイトルも獲得している。カンザス大学陸上チームはミルズが在籍した1959、1960年の屋外国内選手権を制している。
[編集] 差別の中での記録
だが、それらの記録は全く無視された。記念写真を取る際も、優勝者である彼はいつも白人の中から外へ出された。社交クラブへの入部も拒否された。インディアンであることから受ける差別と嫌がらせのあまりのひどさに、ビリーは3年生のときに大学を辞める決心をし、高校時代のコフィン・コーチに電話をした。駆けつけたコフィンはビリーの前で号泣し、「目的があるのに逃げ出す君が悲しい」と諭し、ビリーは再び競技を続けることにした。
大学卒業後、海兵隊の中尉となる。 1963年、ニューヨークでのアマチュア陸上競技連盟のクロスカントリー決勝で、アメリカ人選手で最高の3着に入賞した。この際も写真から外れるよう嫌がらせを受けたが、居合わせた海兵隊将校がそうさせなかった。こうして初めて記録写真にビリーの姿が残った。
[編集] 東京オリンピック(1964年)
ミルズは1964年東京オリンピックの10000mとマラソンの米国代表に選ばれる。それまで、アメリカ人はもとより西半球出身の選手は誰も10000mに勝利したことがなかった。東京オリンピックでは世界記録者であるオーストラリアのロン・クラークを中心に、前大会10000mの金メダリストのソ連のピョートル・ボロトニコフと前大会5000m金メダリストのニュージーランドのマレー・ハルバーグとの間で争われると思われた。アメリカの選考会を2位で通過したミルズはまったく無名であった。選考会で記録したタイムもクラークのベストタイムから1分も遅いものであった。
10000mの決勝は、クラークがペースを作る形で進む。クラークのペースでラップを刻んでいく作戦は次第に効果が現れてきた。レースの半分を過ぎたところで、クラークについていたのはチュニジアのモハメド・ガムーディ、エチオピアのマモ・ウォルデ、日本の円谷幸吉、そしてミルズの4人だけだった。
この中からまず円谷、ついでウォルデが脱落した。残り2周となったところで、3人が先頭集団に残っていた。これはクラークのレースだと思われた。クラークは28分15秒6のタイムを持っていたが、ガムーディもミルズも29分を切ったことのない選手であった。
ガムーディの右後方にミルズとクラークが付く展開でファイナルラップに突入した。バックストレッチでは、周回遅れのランナーにクラークは囲まれ、クラークはミルズを1、2度プッシュした。そして最終コーナーを回ったところでガムーディがミルズとクラークの間を両手を振り下ろして割って入り(はっきり映像に残っている)一気に飛び出し金メダルを決めたかと思えた。
クラークは、ガムーディを追いかけるが追いつけない。一方でミルズは争いに入るには遠すぎる位置にいた。しかし、ここからミルズは外から驚異的なラストスパートで2人とも全力疾走で抜き去った。
ミルズは自己ベストを約50秒更新する28分24秒4のオリンピック新記録で、世紀に残る大番狂わせでの優勝劇を演じたのである。
あまり語られてはいないが、クラークとミルズは10000mの後、マラソンにも出場している。クラークは10kmまで独走したが途中棄権、ミルズは14位という結果であった。
[編集] その他
彼の少年時代から金メダル獲得までの半生を映画化した「ロンリーウェイ」(原題:Running Brave)が1983年に公開されている。