ハインリヒ・ラスペ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハインリヒ・ラスペ(Heinrich Raspe, 1204年 - 1247年2月16日 ヴァルトブルク)は1227年からテューリンゲン方伯を務め、1246年から1247年には皇帝フリードリヒ2世およびその息子のコンラート4世に対抗する対立王となった人物。
「ハインリヒ・ラスペ」という名前は、テューリンゲンの君主一族、ルードヴィング家にしばしば現れる名前ではあるが、そのほとんどは君主の弟に付けられる名前であり、本稿の人物ほどの重要人物は他にいない。ただし学問上は区別のため、この人物をハインリヒ・ラスペ4世と呼ぶ場合もある。
[編集] 生涯
ハインリヒ・ラスペは1204年にテューリンゲン方伯ヘルマン1世とその2度目の妻ゾフィア(バイエルン公オットー1世の娘)の3番目の息子として誕生した。
1227年に十字軍に向かう途上で亡くなった兄ルートヴィヒ4世の後を承けて、1231年にテューリンゲン方伯を継いだ。若い兄の未亡人で後に聖女となるエリーザベト(エルジェーベト)とは明らかに不和な関係にあった。後の伝説では、ヴァルトブルクからのエリザベートの追放は彼のせいだとしているが、それは事実であろうと推測されている。方伯夫人(あるいは方伯の母)という地位から降ろされたエリザベートには、実際に彼女が行ったとおり、「キリストの模倣」以外に進むべき道はなかったのである。
ルートヴィヒとエリザベートの息子ヘルマン2世の地位をハインリヒは事実上支配していた。ヘルマンは1227年の時点では、わずか5歳の未成年であり、1241年に急死したのだった。後の歴史家は、ハインリヒが甥の毒殺に関わった可能性は低いと考えている。現在遺っている当時の重要な文献の中にそうした言及はなく、ヘルマン自身1234年からテューリンゲン方伯として文書を作成しており、叔父との確執を伺わせるものはないことから、疑いはないと考えている。
ハインリヒは、1228年の初めにブランデンブルク辺境伯アルブレヒト2世の娘エリーザベト・フォン・ブランデンブルク(1206年または1210年 - 1231年夏)と、1238年にオーストリア公フリードリヒ2世の妹グルトルート・フォン・バーベンベルク(1210年または1215年 - 1240年または1241年)と、1241年にはブラバント辺境伯ハインリヒ2世の娘ベアトリクス・フォン・ブラバント(1225年 - 1288年)と結婚している。ブラバント辺境伯ハインリヒ2世には、そのほんの少し前に、ルートヴィヒとエリザベートの娘ゾフィーが嫁いでいる。また、ベアトリクスの母親はシュタウフェン家の王、フィリップ・フォン・シュヴァーベンの娘である。
エリーザベトが1231年にマールブルクで亡くなった後、ハインリヒとその弟のコンラート・ラスペは、寛大な贈り物として、ドイツ騎士団をマールブルクに定住させた。1234年の夏にドイツ騎士団はコンラート・ラスペの入団を受け入れ、エリーザベトが寄進した聖フランツィスクス=ホスピスの運営を引き継いだ。コンラートは、教皇グレゴリウス9世によるエリーザベトの列聖実現に向けて努力を続け、1236年5月1日の列聖式には、ハインリヒと並んでシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ2世も出席した。
1241年、ハインリヒは、ヨーロッパを襲ったモンゴル人との戦いに参加した。
1242年、ハインリヒはヴァーツラフ1世とともに、フリードリヒ2世の未成年の息子であるコンラート4世の代理人に任命された。これに対抗しようとする諸侯による戦争への動きを阻止しなければならなかった。
3度目の結婚でもハインリヒに子供は得られず、甥に当たるヴェッティン家のハインリヒ3世(マイセン辺境伯の息子)をテューリンゲン方伯の後継者として認めるよう皇帝フリードリヒに働きかけた。
1245年、教皇インノケンティウス4世によるフリードリヒの解任を承け、ハインリヒ・ラスペがその座に推された。マインツ大司教ジークフリート3世・フォン・エプシュタインとケルン大司教コンラート1世・フォン・ホッホシュターデンがこれを支持した。ハインリヒは、1246年5月2日に少数のドイツ諸侯によってヴュルツブルク近郊のファイツヘーヘハイムで王に選出された。選挙の結果を承けてローマへ向かったことから、彼はすでに「rex clericorum」(聖職者の王)との副え名を付けられている。
コンラート4世が王位を放棄することを拒んだため、ハインリヒの王位は宙に浮いた状態になった。ニッダの戦い(1246年8月5日)でハインリヒは、かつて自分の保護を受けていたものを打ち負かした。彼は2つの宮廷都市フランクフルトとニュルンベルクを奪取した。1247年の冬に彼はウルムとロイトリンゲンを包囲した。ロイトリンゲンの小規模な戦闘で怪我をした彼は、戦闘プランを放棄し、ヴァルトブルクに引き上げ、1247年2月16日にこの地で亡くなった。
彼はアイゼナハ近郊カタリーナ修道院の両親の傍らに葬られた。彼の心臓は、1235年に聖エリザベートを讃えて創建されたドミニク会の伝道教会に安置された。
ハインリヒ・ラスペが亡くなったことで、ルードヴィング家の男系家系は断絶した。このため、ハインリヒの姪に当たるゾフィー・フォン・ブラバント(ルートヴィヒとエリーザベトの娘で、ブラバント公ハインリヒ2世の妻)が後継者を主張し、ハインリヒ・ラスペの甥のテューリンゲン方伯ハインリヒ、ひいてはヴェッティン家との継承戦争が勃発した。
[編集] 参考文献
- Mägdefrau, Werner: Thüringen und die Thüringer Landgrafschaft der Ludowinger vom Regierungsantritt Hermanns I. (1190) bis zum Tode Heinrich Raspes (1247) in: Mägdefrau, Werner u. a. Schmalkalden und Thüringen in der deutschen Geschichte: Beiträge zur mittelalterlichen und neueren Geschichte und Kulturgeschichte, Museum Schloß Wilhelmsburg 1990.
- Patze, Hans: Die Entstehung der Landesherrschaft in Thüringen, I. Teil (= Mitteldeutsche Forschungen, Bd. 22), Böhlau Verlag, Köln/Graz 1962
- Patze, Hans / Schlesinger, Walther: Geschichte Thüringens, Böhlau Verlag, Köln/Graz 1967
- Schwarz, Hilmar: Die Ludowinger. Aufstieg und Fall des ersten thüringischen Landgrafengeschlechts, Wartburg-Stiftung: Eisenach 1993
- Werner, Matthias (Hrsg.): Heinrich Raspe - Landgraf von Thüringen und römischer König (1227-1247). Fürsten, König und Reich in spätstaufischer Zeit. (=Jenaer Beiträge zur Geschichte, Bd. 3), Peter Lang Verlag, Frankfurt am Main u.a. 2003, ISBN 3-631-37684-7
[編集] 外部リンク
注:本稿は、ドイツ語版ウィキペディアの翻訳記事です。上記文献および外部サイトはドイツ語版に挙げられていたものであり、本稿の執筆時に直接参照してはおりません。
|
|