トニーニョ・セレーゾ
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トニーニョ・セレーゾ | ||
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名前 | ||
本名 | アントニオ・カルロス・セレーゾ | |
愛称 | ヒゲ、トニーニョ | |
ラテン文字 | TONINHO CEREZO | |
基本情報 | ||
国籍 | ブラジル | |
生年月日 | 1955年4月21日(53歳) | |
出身地 | ベロオリゾンテ | |
身長 | 183cm | |
体重 | 78kg | |
選手情報 | ||
ポジション | MF(ボランチ) | |
利き足 | 右足 | |
代表歴 | ||
1977-1985 | ブラジル | 74 (6)
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トニーニョ・セレーゾ(Antônio Carlos Cerezo、1955年4月21日 - )は、ブラジル出身の元同国代表サッカー選手(MF)、元鹿島アントラーズ監督。身長 183cm, 体重 78kg, 利き足は右だが、利き手は左、ポジション:ボランチ。
目次 |
[編集] 人物
80年代ブラジル代表ではジーコ、ソクラテス、ファルカンと「黄金の中盤(黄金のカルテット)」を中盤で形成しゴールを量産。数々のタイトルをもたらした。
クラブでは全盛期にイタリアセリエAに渡り、ASローマでUEFAチャンピオンズカップ準優勝、コパ・イタリアで二度の優勝、さらにサンプドリアに移り、チーム初のスクデットをもたらすなど、中心選手として大活躍した。さらに92年に母国ブラジルへ帰るとサンパウロFCに所属、トヨタカップ連覇に貢献するなど、年齢を感じさせないプレーで魅了し続けた。
2000年より鹿島アントラーズの監督に就任。選手の個性を生かす柔軟な作戦で高い評価を得て、長期政権を築く。就任1年目にJリーグ初の年間三冠(Jリーグ年間王者に加え、ナビスコカップ・天皇杯を制する)に輝くなど在任中に合計5冠を獲得した。2005年シーズン終了後勇退。6シーズンという長期政権をしいた。
2006年からは、母国ブラジルの古豪・グアラニFCの監督に就任したが、チームの2部降格、フロントとの衝突もあってわずか2ヶ月で辞任。5月にはサンフレッチェ広島の監督候補に名前が挙がったが、金銭的に折り合いがつかず断念。日本では名将のイメージがあるが、母国ブラジルでは短期間で解任されることが多い。
2007年2月にサウジアラビアのアル・ヒラルの監督に就任。だが成績不振によりわずか2ヶ月で解任された。
[編集] エピソード
- 現役時代から蓄えている口ひげがトレードマーク。鹿島監督時代、敵サポーターからは「ヒゲ!」という愛称で呼ばれていた。2005年シーズン終盤では、勇退発表後の試合で敵サポーターから惜別の意味を込め、異例の「ヒゲ」コールが起こった。
- 鹿島では背番号42番(42が自身のラッキーナンバーか?)のプラクティスシャツを練習時や夏季の試合時に着用していた。練習時にミニゲームの選手の数が足りないと、監督という身でありながら喜んで参加することでも知られ、歳を取った今でもなお、鹿島の選手の誰よりもサッカーが上手かったという。
- 鹿島の試合中は黄色いタオルを首に巻き、サントリー「DAKARA」の2Lペットボトルを愛飲していた。
- 週刊サッカーダイジェスト内の人気コーナー「スーパーさぶっ!!劇場」では、「むけたー!」という一言を発するパロディキャラで登場している。第一回キャラクター投票では堂々の4位(週刊サッカーダイジェスト調べ)であり、隠れた人気者である。
- 鹿島監督時代、スペインのFCバルセロナと親善試合を行った際に、バルセロナの監督フランク・ライカールトに「ずっとあなたに憧れていた。」と言われ照れていた。
- 風貌に似合わず声が高い。
[編集] 所属クラブ
- 1972年 アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)
- 1973年 ナシオナル・マナウス(ブラジル)
- 1974年1月-1983年4月 アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)
- 1983年5月-1986年5月 ASローマ(イタリア)
- 1986年6月-1992年6月 サンプドリア(イタリア)
- 1992年9月-1993年12月 サンパウロFC(ブラジル)
- 1994年2月-1994年12月 クルゼイロEC(ブラジル)
- 1995年4月-1995年6月 パウリスタFC(ブラジル)
- 1995年7月-1995年12月 サンパウロFC(ブラジル)
- 1996年1月-1996年6月 アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)
- 1996年6月-1996年12月 アメリカ・ミネイロ(ブラジル)
[編集] 個人成績
年度 | クラブ | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | リーグカップ | カップ戦 | |||
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出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1972年 | ミネイロ | 3 | 0 | ||||||
1973年 | ミネイロ | 4 | 0 | ||||||
1973年 | マナウス | 20 | 3 | ||||||
1974年 | ミネイロ | 5 | 0 | ||||||
1975年 | ミネイロ | 12 | 0 | ||||||
1976年 | ミネイロ | 19 | 2 | ||||||
1977年 | ミネイロ | 18 | 0 | ||||||
1978年 | ミネイロ | ||||||||
1979年 | ミネイロ | 8 | 1 | ||||||
1980年 | ミネイロ | 19 | 4 | ||||||
1981年 | ミネイロ | 9 | 3 | ||||||
1982年 | ミネイロ | 3 | 0 | ||||||
1983年 | ミネイロ | 11 | 2 | ||||||
1983年-1984年 | ローマ | 30 | 6 | ||||||
1984年-1985年 | ローマ | 22 | 3 | ||||||
1985年-1986年 | ローマ | 18 | 4 | ||||||
1986年-1987年 | サンプドリア | 28 | 3 | ||||||
1987年-1988年 | サンプドリア | 28 | 3 | ||||||
1988年-1989年 | サンプドリア | 29 | 2 | ||||||
1989年-1990年 | サンプドリア | 21 | 2 | ||||||
1990年-1991年 | サンプドリア | 12 | 3 | ||||||
1991年-1992年 | サンプドリア | 27 | 1 | ||||||
1992年 | サンパウロ | ||||||||
1993年 | サンパウロ | 13 | 1 | ||||||
1994年 | サンパウロ | 10 | 3 | ||||||
1995年 | パウリスタ | 3部 | |||||||
1995年 | サンパウロ | 8 | 0 | ||||||
1996年 | ミネイロ | ||||||||
1996年 | アメリカ | 2部 | |||||||
通算 |
[編集] 指導歴
- 1999年1月-1999年4月 アトレチコ・ミネイロ(ブラジル)
- 1999年5月-1999年12月 ECヴィトーリア(ブラジル)
- 2000年1月-2005年12月 鹿島アントラーズ(日本)
- 2006年3月-2006年5月 グアラニFC(ブラジル)
- 2007年2月-2007年3月 アル・ヒラル(サウジアラビア)
[編集] 代表歴
- 1978年 ワールドカップ・アルゼンチン大会
- 1982年 ワールドカップ・スペイン大会
[編集] 受賞歴
- 1993年 トヨタカップ最優秀選手賞
- 2000年 Jリーグ優勝監督賞
- 2001年 Jリーグ優勝監督賞
[編集] 外部リンク
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ブラジル代表 - 1982 FIFAワールドカップ | |
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1 バウディール・ペレス | 2 レアンドロ | 3 オスカー | 4 ルイジーニョ | 5 トニーニョ・セレーゾ | 6 ジュニオール | 7 パウロ・イシドロ | 8 ソクラテス | 9 セルジーニョ | 10 ジーコ | 11 エデル | 12 パウロ・セルジオ | 13 エジバウド | 14 ジュニーニョ・フォンセカ | 15 ファルカン | 16 エジーニョ | 17 ペドリーニョ | 18 バチスタ | 19 レナト | 20 ロベルト・ディナミッチ | 21 ディルセウ | 22 カルロス | 監督 テレ・サンタナ |