ディオドトス1世
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ディオドトス1世はセレウコス朝の総督(サトラップ)、のちに叛いてグレコ・バクトリア王国の創始者となった。彼の事績はローマの歴史家トログス(BC1世紀頃)、ユスティヌス(3世紀頃)、ストラボンらによって伝えられている。これらの中でディオドトスは「テオドトス」(Theodotus) と呼ばれているが、これはディオドトスが「ソテル」(Sotel) という称号を自らに用いていたことと関係していると思われる。ディオドトスの影響力は周辺諸州に及び、時を同じくしてセレウコス朝から独立したパルティア総督、アンドラゴラスの同盟者でもあった。
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[編集] 独立と繁栄
当時セレウコス朝のアンティオコス2世はプトレマイオス朝と交戦状態にあった。
- 「千の都市の総督」(ラテン語で"Theodotus, mille urbium Bactrianarum praefectus")であったディオドトスは自らを王と名乗ってセレウコス朝からの独立を宣言した。東方諸州は彼に倣いマケドニア人の王国から次々と独立していった。(ユスティヌス)
新たな王国は高度に都市化された東方随一の富を誇り、その領域を東西に伸張していった。「バクトリア千市帝国は至上の繁栄を享受した」(ユスティヌス)のである。
- アルテミタのアポロドルス (Apollodorus of Artemita)[1]によれば、バクトリアのギリシャ人はその肥沃な国土をもって大いに国力を伸ばし、アリアナ[2]だけでなくインドにおいても宗主権を行使したという。また、アレクサンドロスが制圧したよりも多くの種族を降伏させた。中心となった都市はバクトラ、ダラスパなどであった。(ストラボン)
[編集] アルサケスとの抗争
遊牧の民ダーハ族の首長であったアルシャク(ギリシア語ではアルサケス)はパルティアへ入ると王を自称していた前総督、アンドラゴラスを滅ぼしパルティア王国の創始者となった。(アルサケス1世)
グレコ・バクトリア王国はギリシャ文化圏との地理的繫がりを断たれることになった。これによってバクトリアの陸上貿易は打撃を受けるがギリシャ、エジプトとの海上貿易が発展することとなった。BC239年、セレウコス2世は東方の反逆者を撃つべく挙兵したが、ディオドトスはこれに加勢し共にパルティアに対峙したという(ユスティヌス)。
まもなくディオドトスは亡くなり、息子のディオドトス2世がパルティアとの講和に成功した。彼はセレウコス2世に対してパルティア国王アルサケス1世と同盟した。
- テオドトスの死によって同じ名前を名乗る彼の息子とアルサケスの間に盟約が結ばれた。彼らは叛乱鎮圧のためやってきたセレウコスの軍と戦い、退却させた。パルティア人はこの日を独立の日として祝日にしている(ユスティヌス)
この後、ディオドトス2世は簒奪者エウティデモスに殺害され、王位を奪われてしまう。