ジョン・ブラウニング
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ジョン・ブラウニング(John Browning, 1933年5月23日 - 2003年1月26日)は米国のピアニスト。抑制の効いた優美な演奏様式と、バッハやスカルラッティの洗練された解釈、米国の作曲家サミュエル・バーバーとの協力関係によって名高い。
音楽好きの両親のもとにコロラド州デンヴァーに生まれる。5歳からピアノを始め、10歳でデンヴァー交響楽団と共演してデビューする。1945年に家族とともにカリフォルニア州ロサンジェルスに転居。同地のオクシデンタル・カレッジに2年間在籍した後、1950年にジュリアード音楽院に入学。1955年にニューヨーク市レヴェントリット・コンクールに優勝し、1956年にニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団と共演して、プロのピアニストとしてデビューする。
1962年、リンカーンセンターの柿落としに、バーバーが自分のために書き下ろした《ピアノ協奏曲》(ピュリッツァー賞受賞作品)を初演する。1991年にレナード・スラットキン指揮セントルイス交響楽団と共演して再録した同作のCD(RCAビクター・レーベル)は、グラミー賞を授与された。1993年には、ミュージック・マスターズ・レーベルへのバーバーのピアノ曲集の録音により、2度目のグラミー賞を獲得している。プロコフィエフのピアノ協奏曲全集も、当時から高評を得ている。
ブラウニングは、ヴァン・クライバーンら同世代のアメリカ人ヴィルトゥオーゾと競合関係にあったものの、慌しい演奏活動を繰り広げ、一つの定期に100回の演奏会をこなすことさえあった。また、現代アメリカ人作曲家の作品に取り組み続けたが、その眼鏡にかなった作品はかなり少なかった。
1970年代になるとスケジュールを緩めた。後に述懐したところによると、過労でぼろぼろであったという。1980年代は活動が停滞気味だったが、1990年代になってちょっとした復活を果たした。2002年5月に、招かれて合衆国最高裁判所で演奏したのが最終公演となった。
ブラウニングは、ドメニコ・スカルラッティやウィーン古典派などの、洞察力をそなえた知的な解釈によって名高い。1980年代後半にデロス・レーベルに録音したラフマニノフの《ピアノ・ソナタ第2番》の録音は、美しい優秀録音も手伝って、生前のブラウニングの卓越した超絶技巧と繊細な美音を伝えるよすがとして定評がある。