ジェイコブ・シフ
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ジェイコブ・ヘンリー・シフ(Jacob Henry Schiff、1847年1月10日 – 1920年9月25日)は、ドイツ生まれのアメリカの銀行家。生まれた時の名前(即ちドイツ名)は、ヤーコプ・ヒルシュ・シフ(Jacob Hirsch Schiff)。
[編集] 生涯
代々ラビの家系で、1370年からフランクフルトのゲットー時代、初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド時代に緑の盾と呼ばれる建物にロスチャイルド家とともに住んでいたことが確認できる。
18歳、1865年に渡米し、いくつかの銀行を転々とした後、ジェイコブ・ヘンリー・シフは、ソロモン・レーブ(ローブ)の娘テレサと結婚。当時「西半球で最も影響力のある2つの国際銀行家の1つ」と謳われたクーン・ローブの頭取に就任。シフは常にユダヤ人社会への強い絆を感じ続け、慈善という形で同胞のために貢献した。たとえばロシアでポグロムに苦しむユダヤ人を解放するために尽力し、ヘブライ・ユニオン・カレッジの創立と発展を助け、ニューヨーク公共図書館にユダヤ区画を作った。
日露戦争に際しては、日銀副総裁であった高橋是清による外債募集に応じ、2億ドルの融資を通じて日本を強力に資金援助し、帝政ロシアを崩壊に導いた。このとき、バクー油田の利権を獲得していたイギリス・ロスチャイルドに融資を断られ、その紹介を受けてジェイコブ・シフより融資を受けた。その訳はロシアの伝統的な反ユダヤ主義(ポグロム)に対する報復だったと言われている。結果として日本は勝利を収め、シフは一部の人間から<ユダヤの世界支配論>を地で行く存在と見なされるようになった。またこれ以後、高橋との親交を結んだ。
シフの帝政ロシア打倒工作は徹底しており、第一次世界大戦の前後を通じて世界のほとんどの国々に融資を拡大したにも拘らず、帝政ロシアへの資金提供は妨害した。1917年にレーニン、トロツキーに対してそれぞれ2000万ドルの資金を提供してロシア革命を支援した。同年にツァーリが倒れると、これで反ユダヤ主義が終息すると信じたシフはケレンスキー政権に対して期待を寄せたが、やがてケレンスキーやレーニンの考えていることが明らかになると、再び彼らには何も貸すまいと決心するようになったと言われる。
政治的・世俗的なシオニズムには反対だったが、ユダヤ人のパレスチナ入植には多額の寄付をおこない、ハイファ工科大学の設立をも援助した。
娘のフリーダはヴァールブルク家に嫁いだ。