サヨンの鐘
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サヨンの鐘(サヨンのかね)は1938年に起きた事故に関連して台湾台北州蘇澳郡蕃地(現・宜蘭県南澳郷)に設置された鐘、およびその事故のことを歌った渡辺はま子の歌(西条八十作詞、古賀政男作曲)、また、その事故を題材として1943年に封切られた李香蘭主演の松竹映画。
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[編集] サヨンの遭難
昭和13年(1938年)、日本統治下の台湾・台北州蘇澳郡蕃地のタイヤル族の村、リヨヘン社に駐在していた日本人の巡査に召集令状が届き、出征することとなった。その巡査は村の学校の教師も勤めるなど面倒見がよく、村人から慕われていたため、山から下りるときの荷物運びを村の青年たちが申し出た。17歳の少女サヨン・ハヨンもその一人だった。出発の日、折悪しく悪天候の中、一行は山を下ったが、途中の川に掛かった丸木橋を渡るとき、荷物を背負ったサヨンが足を滑らせて増水した川に落ち、命を落としてしまった。
この話は、出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にした、ということから、台湾先住民宣撫のための格好の愛国美談となって広まり、台湾総督によってサヨンを顕彰する鐘と碑が遭難現場付近に建てられた。これが「サヨンの鐘」と「愛國乙女サヨン遭難の碑」である。
[編集] 歌
サヨンの遭難の記事を読んで感動し、強く楽曲化を希望したのが当時すでに中国情緒あふれる歌で人気のあった渡辺はま子であり、その希望を入れる形で作られたのが西条八十作詞、古賀政男作曲による歌謡曲「サヨンの鐘」である。この歌は美談とともに広まり、内地外地を問わずヒットした。
- 「サヨンの鐘」(1941年7月)
[編集] 映画
歌のヒットを受けてさらに映画化が企画された。当初1941年に製作される予定であったが、日米開戦の影響で航海の安全が危ぶまれ、台湾ロケができなくなったので一度中止された(その際満洲を舞台に代わりに製作されたのが『迎春花』である)。当時大陸三部作(「白蘭の歌」、「支那の夜」、「熱砂の誓ひ」)などで人気のあった大スター李香蘭の主演で製作されたこの映画は1943年7月に封切られた。映画の中で李香蘭は「サヨンの歌」(「サヨンの鐘」とは別曲。これも西条八十作詞、古賀政男作曲)を歌っている。
- 「サヨンの鐘」(1943年7月公開/75分)
[編集] 戦後
第二次世界大戦後、台湾に移ってきた国民党政権によって、日本の台湾統治の象徴のひとつであるこの鐘は撤去され、碑も碑銘を削った上で捨てられてしまった。しかしその後、台湾の民主化とともに鐘は復元され、碑も、新しい碑と並んで再び建てられている。また、サヨンの住んだ村の付近に架けられた橋には「サヨン橋」という名もつけられている。