サム・ペキンパー
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サム・ペキンパー(Sam Peckinpah.1925年2月21日-1984年12月28日)は、アメリカ合衆国の映画監督。代表作は『ワイルドバンチ』、『ゲッタウェイ』など。その暴力描写とそれを写し出す映像技法は多くの人々に影響を与えた、別名最後の西部劇監督。
[編集] 概要
本名はデイヴィッド・サミュエル・ペキンパー。自らインディアンの血を引いていると自慢していたが、実際はヨーロッパ系移民の子孫。少年時代は読書好きで繊細な性格だったという。
スローモーションや、細かいカットを自在に編集するセンスで過激な暴力描写を駆使した独自の演出は、マカロニ・ウェスタンや同じ暴力派のドン・シーゲルの影響を受けたと言われた。トラブルメーカーだった本人自身の経験や人生が色濃く反映したものである。また、映像表現に対する斬新な表現はジョン・ウーやクエンティン・タランティーノに代表されるフィルム・ノワール的な作品やウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』など、今日に至るまでのアクション映画における表現手法に多大な影響を及ぼした。そしてバイオレンス映画、アクション映画の原点にして頂点とも言える作品を数多く世に送り出した希有な天才である。また、滅びゆく西部の男たちを哀切の込もった視線で描き続けたことから、「最後の西部劇監督」、もしくは「西部劇の破壊者」と呼ばれる。同時期であるイタリアの巨匠セルジオ・レオーネと同様、西部に対する深い愛と失われてゆく西部への哀愁が漂う作品が多かった。
ペキンパー映画の常連である、L・Q・ジョーンズは同じ作品を14本も撮ったと語った。それぐらい彼の作品は、自分自身の性格を表したような作品が多いということである。
予算やスケジュールを度外視してまで作品の完成度を追求し、気に入らないことがあれば関係者を容赦なく叱咤した。そのため製作者や出演者と事あるごとに衝突し、特に晩年は会社側からは扱いづらい監督として冷遇され続けた。また、私生活でも過度の飲酒や麻薬常用などの問題を抱えていた。それは誰にも自分の感情を理解してもらえない孤独な寂しさゆえの表れであったとも言える。実生活での過剰なストレスゆえか、死去した時の年齢は59歳だったが、それ以前からかなり老け込んだ風貌だった。
彼の作品は日本やヨーロッパでの評価は高く、アメリカでは非常に低いという説がある。客観的事実だけ述べると、ペキンパー自身が本腰を入れた渾身作『ワイルドバンチ』、『戦争のはらわた』よりも、ある会席で「これは俺の映画じゃない!!」と叫んだ『ゲッタウェイ』の方が興行収入は上である。
自身曰く、映画人生を通じて影響を受けた監督はドン・シーゲル、ジョン・フォード、黒澤明とのことである(特に黒澤の『羅生門』はこれまで作られた映画の中で最も優れた作品、とインタビューの中で語っている)。
[編集] 略歴
- 第二次世界大戦で海兵隊として従軍する。
- 南カリフォルニア大学で演劇を学ぶ。
- 卒業後、舞台を演出した後、テレビの裏方としてスタジオに入りドン・シーゲルのもとに弟子入りする。
- 西部劇『ガンスモーク』・『ライフルマン』・『風雲クロンダイク』の脚本がテレビ局に買われ、西部劇のTVシリーズのディレクターになる。
- 1955年 『ガンスモーク(TVシリーズ)』 監督
- 1956年 『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』 脚本/端役で出演
- 1958年 『ライフルマン(TVシリーズ)』 監督
- 1960年 『遥かなる西部(TVシリーズ)』、 『風雲クロンダイク(TVシリーズ)』 監督
- 1961年 『荒野のガンマン(THE DEADLY COMPANIONS)』 監督
- 長編映画デビュー作品。
- 1962年 『昼下がりの決斗(RIDE THE HIGH COUNTRY)』 監督/脚本
- 1964年 『ダンディー少佐(MAJOR DUNDEE)』 監督/脚本
- 編集権をめぐりプロデューサーと衝突する。以後、しばらく映画界から干される。
- 1965年 『栄光の野郎ども』 脚本
- 1966年 『昼酒(TV映画)』 監督
- 優れた演出が認められ、本格的な復帰の契機となる。
- 1968年 『戦うパンチョ・ビラ』 脚本
- 1969年 『ワイルドバンチ(THE WILD BUNCH)』 監督/脚本
- 独特のバイオレンス描写とスローモーション撮影で注目される。この作品の出来には96%満足しているらしい。一般客には過激な暴力表現に対する批判を招いた。
- 1970年 『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード(THE BALLAD OF CABLE HOGUE)』 監督/製作
- 自身のベスト・フィルムであることを宣言し、彼の穏やかな一面が見られる。
- 1971年 『わらの犬(STRAW DOGS』 監督/脚本
- 1972年 『ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦(JUNIOR BONNER)』 監督
- 出演:スティーブ・マックイーン
- 1972年 『ゲッタウェイ(THE GETAWAY)』 監督
- 出演:スティーブ・マックイーン
- 初の大ヒットを記録。彼の作品としては最も娯楽色の強い名作である。
- 1973年 『ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯(PAT GARRET AND BILLY THE KID)』 監督/棺桶屋の役で出演
- 出演・音楽:ボブ・ディラン
- 1974年 『ガルシアの首(BRING ME THE HEAD OF ALFRED GARCIA)』 監督/脚本
- 本国アメリカでは大惨敗だが、日本ではヒットを記録した。
- 1976年 『キラー・エリート(THE KILLER ELITE)』 監督
- 1977年 『戦争のはらわた(CROSS OF IRON)』 監督
- アメリカでは、短期間の上映で観客、批評家の評価はいまひとつだったが、ヨーロッパや日本では、高い評価を受けた。かのオーソン・ウェルズやマーティン・スコセッシらに絶賛された。
- 1978年 『コンボイ(CONVOY)』 監督
- 1979年 『訪問者(THE VISITOR)』 端役で出演
- 1983年 『バイオレント・サタデー(THE OSTERMAN WEEKEND)』 監督
- 1984年 心不全で没
[編集] 参考文献
- ガーナー・シモンズ著、遠藤壽美子・鈴木玲子訳『サム・ペキンパー』 河出書房新社、1998年6月、ISBN 4-309-26340-2
- 原著: Garner Simmons, "Peckinpah: A Portrait in Montage", University of Texas Press, 1982, ISBN 087910273X
- 遠山純生編『e/m ブックス vol.10 サム・ペキンパー』 エスクァイア・マガジン・ジャパン、2001年9月、ISBN 4-87295-078-X