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コンスタンティノープルの陥落 - Wikipedia

コンスタンティノープルの陥落

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コンスタンティノープルの包囲戦

戦争:コンスタンティノープルの包囲戦
年月日1453年4月2日-5月29日
場所コンスタンティノープル
結果オスマン朝の勝利
交戦勢力
オスマン朝 東ローマ帝国
指揮官
メフメト2世 コンスタンティヌス11世
戦力
80,000-200,000人 7,000人
損害
不明 死者・兵4,000人、市民10,000人
約1000年にわたって難攻不落を誇った、「テオドシウス(2世)の城壁」
約1000年にわたって難攻不落を誇った、「テオドシウス(2世)の城壁」

コンスタンティノープルの陥落とは、1453年5月29日オスマン帝国(オスマン・トルコ)のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)が陥落し、東ローマ帝国が滅亡。古代からのローマ帝国[1]が最終的に滅亡した事件である。

目次

[編集] メフメト2世の野望

この戦争の以前には、オスマン帝国と東ローマ帝国は表向きは平和的な関係にあった。この時代になると、帝国という名前とは裏腹に、東ローマ帝国の領土は首都コンスタンティノープルとペロポネソス半島の一部モレアス専制公領(古代スパルタ近郊にあるミストラの要塞が首府)を残すのみとなっていた。東ローマ帝国の1000年を超える歴史の中で、コンスタンティノープルは幾度となく軍隊に包囲されてきたが、占領されたのは第4回十字軍による一回だけであった。また、10世紀のブルガリア王シメオン1世や14世紀のセルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンのように東ローマ帝国を完全に征服しようと意図した者はいたが、実際に成功した者はいなかった。しかし、メフメト2世はこれを目指したのである。

開戦の経緯については必ずしも明確であるとは言えない。歴史家ドゥカスの伝えるところでは、東ローマ皇帝コンスタンティノス11世ドラガセス(在位1449年-1453年)がまだ若年のスルタンを牽制する意図でコンスタンティノープルに亡命していたオスマン家の王子オルハン(メフメト2世の祖父メフメト1世の長兄スレイマン・チェレビの孫)を対立スルタンに擁立する事を警告した事にメフメトが立腹し戦争状態に突入したという。事の次第に驚いたコンスタンティノス11世は和平交渉を試みたが不成功に終わった。

メフメト2世は1452年ボスポラス海峡のヨーロッパ側、つまりコンスタンティノープルの城壁の外側に城を建て、都市を陥落させるための足がかりとした。この城は「ローマの城」という意味の言葉でルメリ・ヒサルと呼ばれた。

[編集] 包囲戦の状況

コンスタンティノス11世は西ヨーロッパ諸国に救援を求めたもののその反応は鈍く、ローマ教皇ニコラウス5世はこれに応じる姿勢を見せたが実質的な進展は殆ど見られなかった。コンスタンティノープルを重要な商業拠点とするヴェネツィアジェノヴァは援軍を送り、東ローマ軍は2000人の外国人傭兵を含めて7000人になった。都市を囲む城壁の総延長は約26kmで、おそらく当時最も堅固な城壁であった。

一方、オスマン帝国側は、スルタン直属の最精鋭部隊であったイェニチェリ軍団2万人を中心とした10万人の大軍勢に加え、海からも包囲するために艦船を建造させた。またハンガリー人のウルバンという技術者を雇い、当時としては新兵器であった大砲を作らせた。それは長さ8m以上、直径約75cmという巨大なもので、544kgの石弾を1.6km先まで飛ばすことができた。東ローマ帝国にも大砲はあったが、より小さいもので、射撃の反動で城壁を傷つけることがあった。ただし、ウルバンの巨砲にも欠点はあった。『コンスタンティノープルのどこか』といったような、かなり大きな標的でさえも外すほど命中精度が低かったのである。さらに一回発射してから次の発射までに、3時間かかった。砲弾として使える石が非常に少なく、射撃の反動が元で6週間使うと大砲が壊れるという始末であった。

メフメト2世は、コンスタンティノープルが唯一陸地に面する西側の城壁から攻撃しようとし、1453年4月2日の復活大祭の日に、都市郊外に軍隊を野営させた。7週間にわたり、大砲により城壁を攻撃したが、十分に崩すことはできなかった。というのは、射撃間隔がとても長かったため、東ローマ帝国側はその損害のほとんどを回復することができたためである。一方、メフメト2世の艦隊は、金角湾の入り口に東ローマ帝国側が渡した太い鎖によって、その中に入ることができなかった。途中、救援物資を積載したジェノヴァ船3隻と東ローマ船1隻が金角湾に来航し、オスマン艦隊と海戦になったもののオスマン艦隊は彼らを拿捕する事に失敗した。

オスマン帝国側は膠着状態を打開すべく、金角湾の北側の陸地(ジェノヴァ人居住区があったガラタの外側)に油を塗った木の道を造り、それを使って陸を越え70隻もの船を金角湾に移す作戦に出た。「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれるこの奇策は成功し、これによりジェノヴァ船による援助物資の供給は阻止され、東ローマ帝国軍の士気をくじくことになった。しかし、陸上の城壁を破る助けとはならなかった。

この間にコンスタンティノープル政府とメフメト2世との間で和平交渉が形式的に行われた。メフメト2世は、降伏開城を呼びかけ、安全な退去とモレアス専制公領の支配権を約束した。コンスタンティノス11世はこれを拒絶し、包囲戦は続行された。またオスマン陣営内でも和平派と主戦派が激論を戦わせる場面もあったようであるが、最終的には後者が勝り、メフメト2世は総攻撃を決定した。

西欧からの来援は、結局なかった。また最も近い国の一つハンガリー王国は消極的な干渉を試みたようであるがオスマン側の包囲を解かせるには至らなかった。

コンスタンティノス11世が最後の演説を行ったとされる、「コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿」
コンスタンティノス11世が最後の演説を行ったとされる、「コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿」

防衛側も、総攻撃を察知していた。5月28日の夜、コンスタンティノス11世は宮殿で大臣や将兵を前に最後の演説を行った。将兵達は涙ながらに「キリストのために死ぬのだ!」と叫び、皆お互いに別れを告げあった。その後ハギア・ソフィア大聖堂聖体礼儀が行なわれ、皇帝コンスタンティノス11世以下将官、市民など多くの人々が神に最後の祈りを捧げた。その後、コンスタンティノス11世は臣下の一人一人に自らの不徳を詫び、許しを乞うた。その場にいたもので涙を流さない者はいなかった。と、偽スフランゼスの『年代記』は伝えている。

[編集] 「ローマ帝国」の滅亡

5月29日未明、ついにオスマン帝国側の総攻撃が開始された。攻撃の第一波は、貧弱な装備と訓練のされていない不正規兵部隊(バシ・バズーク)たちだったため、多くが防衛軍に倒された。第二波は、都市の北西部にあるブラケルナエ城壁に向けられた。ここは大砲によって部分的に破壊されていたため、なんとか侵入できる場所であったが、すぐに防衛軍によって追い払われた。イェニチェリ軍団の攻撃にもどうにか持ちこたえていたのだが、ジェノヴァ人傭兵隊長ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴが負傷したことで、防衛軍は混乱に陥り始めた。

不幸なことにブラケルナエ地区のケルコポルタ門の通用口は施錠されていなかった。これを発見したオスマン軍は城内に侵入し、防衛軍はたちまち大混乱に陥って敗走した。しかしコンスタンティノス11世は、最後まで前線で指揮を執り続けた。ドゥカスの伝えるところでは、城壁にオスマンの旗が翻ったのをみたコンスタンティノス11世は身につけていた帝国の国章(双頭の鷲の紋章)をちぎり捨て、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、「誰か予の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と叫び、親衛軍とともにオスマン軍の渦の中へ斬り込んでいったと言われている(しかし実際に目撃者がいても、この状況下で生きていられたとも思えず、この逸話が事実であるか定かではない)。こうして皇帝コンスタンティノス11世は行方不明となり、古代から存続してきた「ローマ帝国」は完全に滅亡した。

当初、包囲に抵抗した都市に対する伝統的な処罰として、メフメト2世は兵士たちに都市を3日間略奪するように命じたが、古代から続くこの帝国への敬意を忘れなかったため、コンスタンティノープルが陥落したあとの数時間後に、一転して軍の行動を阻止するように命じ、街の状況が落ち着いてからコンスタンティノープルに入った。総主教座のあったハギア・ソフィア聖堂はモスクに改修された。

メフメトはこの一都市の征服によって「征服王」と呼ばれるようになり、コンスタンティノープルはイスタンブールと改称され(正式な改名は1922年)、オスマン帝国の新しい首都となった。正教会に対しては多くの聖堂をモスクに改造して抑圧策をとる一方で、人望の篤い修道士であったゲオルギオス・ゲナディオス・スコラリオスをコンスタンティノープル総主教に任命し、正教徒の懐柔にあたった。

[編集] 滅亡の影響

この影響によりジェノア、ベネチア等の地中海貿易で栄えていた都市国家は、その権益をオスマン帝国に奪われる事になり、イタリアの一地方都市へと転落して行く。彼の国の航海士達の多くは、後にスペインやポルトガル等のイベリアの新興国家に移り、大航海時代に大活躍をする。また、キリスト教徒にとってコンスタンティノープルは重要な聖地であり、それをイスラム教国家であるオスマン帝国に奪われたという事は、結果として教皇の権威失墜を意味し、後の宗教改革への胎動のひとつとなる。東ローマ帝国への援軍に消極的だったバルカン半島諸国は、後にオスマン帝国に滅ぼされるか、ハプスブルグ家の傘下になるかの何れかの道を辿り、本格的な独立を回復するのは20世紀になってからである。

以上を踏まえ、この事件は単に一帝国の滅亡に留まらず、世界史が中世から近世へと代わった重要な転換点だった事になる。

[編集] 関連項目

[編集] 関連書籍

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 脚注

  1. ^ 一般的には「ローマ帝国の滅亡」は476年の西ローマ帝国滅亡とされるが、オドアケルは西ローマの帝位をコンスタンティノポリスの「ローマ皇帝」に返上し、名目上はコンスタンティノポリスの皇帝が全ローマ帝国の皇帝となった。また、東ローマ帝国の正式国号は一貫して「ローマ帝国」であり、法制上では古代からのローマ帝国の滅亡はこの日になる(井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社学術文庫 P13)。詳細は、前掲書のほか東ローマ帝国の「主な日本語の参考文献」の各書を参照のこと。


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