コンスタンチン・パヴロヴィチ大公
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コンスタンチン・パヴロヴィチ・ロマノフ(Константи́н Па́влович Рома́нов, 1779年4月27日–1831年6月27日)は、ロシア帝国の大公で帝位継承者(1801年 - 1823年)。父はパーヴェル1世。兄にアレクサンドル1世、弟にニコライ1世、妹にアンナ・パヴロヴナ(オランダ王ウィレム2世の妃)がいる。
ウィーン体制下のポーランド立憲王国で、コンスタンチンは総督と「事実上の」副王という地位を兼ねた。1820年にポーランドの貴族女性と結婚したことでロシアでの帝位継承権を喪失。そのため皇帝アレクサンドル1世の死後(1825年)、弟ニコライが即位したことから、ニコライ1世に反対する将校たちによるデカブリストの乱が起こった。
[編集] 青年期
コンスタンチンは1779年4月27日にツァールスコエ・セローで生まれた。皇帝パーヴェル1世とヴュルテンベルク公女ゾフィー・ドロテア(マリア・フョードロヴナと改名)との間に生まれる。コンスタンチンの躾けは、アレクサンドル1世(兄)と同様に、女帝エカチェリーナ2世(祖母)に委ねられた。コンスタンチンは1796年2月26日に、エカチェリーナ2世の薦めに従ってザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツ・フリードリヒの娘(ベルギー王レオポルド1世の姉)ユリアーネ・ヘンリエッテ・ウルリケ(アンナ・フョードロヴナと改名)と結婚した。しかし1799年に2人は別居し、1801年に妻はドイツに帰国。1814年にコンスタンチンは妻を呼び戻そうとするが、強い抵抗に遭い断念。
[編集] ナポレオン戦争
夫婦間の不和の最中、コンスタンチンはスヴォーロフ麾下の軍隊に従軍する。バッシニャーノの戦いでは自らの失策が敗因となるが、ノーヴィの戦いでは勇猛果敢さを称えられ、パーヴェル1世(父)から帝位継承権を授与された。しかし結局、コンスタンチンは最後まで帝位継承権を行使することはなく、1801年3月11-12日にパーヴェル1世が近衛連隊に暗殺されると、3月23日にアレクサンドル1世が即位した。
コンスタンチンは政界とは距離をとって軍事に熱意を示したが、現場で目覚しい成果を挙げることはなかった。1805年のアウステルリッツの戦いでは、彼の作戦ミスがロシア敗戦の一因となり、また1807年の従軍の際も軍功をあげなかった。
ティルジットの和約(1807年)の後、コンスタンチンはナポレオン・ボナパルトの熱烈な崇拝者となり、ロシアとフランスの協商関係を支持。そのためアレクサンドル1世から信用を失う。アレクサンドル1世にとってフランスとの同盟は目的達成のための手段に過ぎなかった。1812年のモスクワ陥落後もコンスタンチンは見解を変えず、陸軍元帥クトゥーゾフとともに、早急に平和条約をナポレオンと締結するように主張した。
コンスタンチンは行軍中に風紀を乱した廉で、バルクライ・ド・トーリから二度も軍務を解任されるが、ドイツ、フランスとの戦いでは重要な持ち場を任された。1813年8月26日のドレスデンの戦いでは大敗を喫したが、フェル・シャンプノアーズでは軍功をあげた。
[編集] ポーランド総督
ナポレオン・ボナパルトの失脚後、1814年から1815年にかけてウィーン会議が開かれ、ワルシャワ公国の廃止と、その後釜として、アレクサンドル1世を君主とするポーランド立憲王国の成立が決められた。コンスタンチンはアレクサンドル1世によってポーランド立憲王国の「事実上の」副王に任命される(正式にはポーランド立憲王国総督 Namiestnik Królestwa Polskiego)。コンスタンチンはポーランド軍の、後に(1819年)リトアニア軍の、またかつてのポーランド・リトアニア連合王国に属したロシア領下の軍の指揮権を与えられた。
コンスタンチンはポーランドに秘密警察(ロシア帝国内務省警察部警備局)を蔓延らせ、ポーランド愛国主義運動の抑圧に全力を注いだ。なかでも自由主義的な反対派のカリシ派を迫害し、地方行政や軍隊の主要な役職からポーランド人を外しロシア人で固めた。こうした彼の統治は、ポーランド民衆の不満を招いた。
夫婦別居から19年後、1820年3月20日にコンスタンチンとユリアーネとの結婚は正式に破綻。2ヵ月後の5月27日に、コンスタンチンはポーランド王国のウォヴィツキ公爵領のヨアンナ・グルジンスカ公爵夫人と結婚。妻がポーランド人であったため、コンスタンチンはロシアの帝位継承権を喪失した。
1825年12月1日にアレクサンドル1世が死去すると、コンスタンチンとニコライ大公の間で帝位の継承が定まらず、一時的な空位期間が生じたが、結局弟ニコライが即位する。このときの継承権を巡る混乱がもとで、ニコライ一世の帝位宣誓式の当日(25年12月14日)にデカブリストの乱が起きる(結局、反乱は一日で鎮圧される)。
ニコライ一世の治世のもと、コンスタンチンはポーランド副王の地位を継続。しかしデカブリストの乱にポーランドの愛国派が関わっていたため、ニコライ一世はポーランドの軍事力を骨抜きにして自らの権限を拡張しようとした。1829年にニコライ一世は、ポーランド王としてワルシャワで即位すると、ポーランド王国の憲法と軍の廃止を断行しようとする。 それを受けて、1830年 11月にコンスタンチンの居所ベルヴェデル宮殿がポーランド愛国派に襲撃され、いわゆる11月蜂起が起こる。ただし、コンスタンチンが愛国派の敵であったかと言えば必ずしもそうではない。そもそもコンスタンチンは、ポーランド愛国派の不穏な動きを事前に知っていながら、ロシア帝国に情報が漏れるのを妨げ、ポーランドでの蜂起を容易なものにした。おそらく彼はロシア人である前に、ポーランドの統治者としての意識が強かったと考えられる。ところがコンスタンチンは1831年6月27日に、蜂起の鎮圧を目にすることなく、ヴィテブスクでコレラによって死亡した。