ゲンドゥン・チューキ・ニマ
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(ダライ・ラマ14世の認定による)パンチェン・ラマ11世 | |
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1989年4月25日 - | |
尊称 | テンジン・ゲンドゥン・イェシェー・ティンレー・プンツォク・ペルサンポ |
生地 | チベット |
宗派 | チベット仏教ゲルグ派 |
ゲンドゥン・チューキ・ニマ (དགེ་འདུན་ཆོས་ཀྱི་ཉི་མ་, 1989年4月25日 - ) はガンデンポタン認定のパンチェン・ラマ11世・テンジン・ゲンドゥン・イェシェー・ティンレー・プンツォク・ペルサンポ[1]で中国チベット自治区ラリ県出身の青年である。
目次 |
[編集] 生い立ち
[編集] 2人のパンチェン・ラマ問題
1989年1月28日にチベット自治区でパンチェン・ラマ10世が入寂した後に、ダライ・ラマ14世とチベット亡命政府はパンチェン・ラマ10世の転生霊童の探索を始め、1995年5月14日に当時6歳であったニマ少年というチベット族の男児をパンチェン・ラマ10世の転生霊童として認定をし、中華人民共和国に先駆けて発表した。
しかしながら中華人民共和国はチベット亡命政府の転生者認定を承認せず、チベット亡命政府とは別に転生霊童を探索した。ダライ・ラマ14世による新パンチェン・ラマ認定布告後の3日後に、ニマ少年は両親とともに失踪。当初、中国当局はニマ少年と両親の失踪との関わりを否定していたが、翌1996年5月28日に中国政府は「ニマ少年を保護する目的」で連行したことを認めた。中国政府は「ニマ少年は両親の要請に基づいて政府が保護している。ニマ少年は分裂主義者によって連れ去られる恐れがあり、身の安全が脅かされている」と保護の理由を説明している。連行から現在まで、外国の報道機関や人権団体など第三者がニマ少年(や両親)と面会することは中国政府に許されていないため、ニマ少年の安否に関して確実な情報が出ていない。
現在のニマ少年とその家族の消息については、個人情報保護を理由に中国政府は公表していない[2]。ニマ少年の写真は1枚しか残っていない。連行当時、人権団体の中にはニマ少年を世界最年少の政治犯と認定していた団体も存在する。
なお、歴代のパンチェン・ラマが座主を務めてきたチベット自治区シガツェ市のタシルンポ寺には、現在は中華人民共和国によって認定されたパンチェン・ラマ11世(ギェンツェン・ノルブ)が住んでいる。そのため、パンチェン・ラマ11世が二人存在する問題が発生している(パンチェン・ラマ11世問題)。
[編集] ニマ少年の政治的背景
代々パンチェン・ラマはダライ・ラマの転生者の認定に大きな影響力を持つ。現在のダライ・ラマ14世は、1949年から始まった中国人民解放軍によるチベット侵攻・併合後、1959年にインド北部へ亡命して亡命政府を樹立している。彼はチベット人の精神的指導者のみならず、政治的指導者としても多大な影響力を持っているが、このチベット問題における最重要人物の転生者を認定に、パンチェン・ラマ11世が大きな影響を及ぼす。ゆえに、事は一宗教の高僧の転生の話に留まらない。
新パンチェン・ラマの存在は、中国政府にとっては中華人民共和国チベット自治区における政治主導権を保持することにつながり、一方のダライ・ラマ14世側にとっても重要となる。2人のパンチェン・ラマの存在には、チベット問題という政治的背景がある。
[編集] 脚註
- ^ ダライ・ラマ法王日本代表部事務所パンチェン・ラマ11世発見の法王声明/1995年5月14日
- ^ Xizang-zhiye April 27, 2005
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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