ゲオルギ・ディミトロフ
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ゲオルギ・ディミトロフ(Георги Димитров,Georgi Dimitrov, 1882年6月18日 - 1949年7月2日)はブルガリア首相、コミンテルン書記長。
少年時代に植字工となり、1901年、印刷工労働組合の書記に選任された。1902年、ブルガリア労働者社会民主党に入党、同党の分裂後、同党左派(のち共産党)に加わり、中央委員、1918年、政府の戦争政策に反対して運動し投獄された。1921年、コミンテルン第3回大会に出席。1923年、ブルガリアの9月烽起の指導に参加したが失敗し、国外亡命。欠席裁判で死刑判決を受ける。
亡命中、ブルガリア共産党中央委員会国外事務局委員として活動したが、1933年、ナチスの国会議事堂放火事件に関わって逮捕される。裁判で検察を論破し、翌年、無罪釈放された。1935年、コミンテルン書記長となる(43年まで)。1935年、コミンテルン第7回大会で反ファシズム統一戦線戦術を提起し、採択された。しかしその後、独ソ不可侵条約締結により、スターリンの指示で反ファシズム統一戦線戦術は棚上げされた。戦後にかけてのコミンテルンでは、スターリンの助手の役割を果たすこととなった。
1945年、第二次世界大戦終結後、ブルガリアに帰国し、首相となったが、1949年、療養先のモスクワ近郊で死去した。
[編集] 参考文献
- ステラ・ブラゴエワ『ゲオルギイ・ディミトロフ』1970、恒文社
- 『ディミトロフ選集』全3巻、1972、大月書店
- 『反ファシズム統一戦線』大月書店国民文庫(ISBN 4-272-84250-1)
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