キング・カーティス
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キング・カーティス(King Curtis, 本名Curtis Ousley 1934年2月7日-1971年8月13日)は、アメリカ、フォートワース出身のサクソフォーン奏者。
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[編集] 功績
R&B、ソウル、ブルース、ファンク、ロック及びソウル・ジャズの巨人。正確にはカテゴライズ不能。インストゥルメンタルでダンサンブルなロックンロール、あるいはブルース音楽といった方が適切。
晩年はレッド・ツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」やプロコル・ハルムの青い影をカバーするなど音楽ジャンルの垣根を飛び越え、ハードロックやプログレッシブ・ロックの領域にまで達し、フュージョンの先駆者といっても過言ではない。
踊れるジャズ、つまり後の広義でいうブラック・コンテンポラリーという新しい音楽ジャンルを大衆化したのが最大の功績だが、当時の保守的な音楽評論家からは、子供のお菓子音楽と痛烈に批判されている。反面、その独特で力強く且つシンプルなプレイスタイルがミュージシャンに与えた影響は多大で、海外の著名サキソフォン奏者では、デイヴィッド・サンボーン、マイケル・ブレッカー、トム・スコットなどがインタビューの席上で、自分こそがキング・カーティスの後継者であると発言している。 日本でも、解散したチェッカーズが全盛期時のインタビューでフェバリットアーティストとして名前を挙げた事もあった。(キング・カーティスのロックンロールスタイルを指すものと思われる)
長い下積み生活から一気に表舞台に立ったのは、1950年代末から1970年初頭までで、ニューヨークを拠点とするセッションミュージシャンとして活動。当時、仕事を全く選ばず、依頼があれば何でも演奏するポリシーで、一時期はニューヨークでレコーディングされたシングルヒットの大半のレコーディングに参加していたとの神話もあり、競演したアーティストは玉石混交で数知れず。ハンブルク時代のビートルズのバックバンドも務め、その後、前座で出演したビートルズNYシェイ・スタジアムライブの映像にもたっぷり収録されている。
[編集] 軌跡
1959年よりソロ活動を本格開始。「soul twist」「soul serenade」等のスマッシュヒットを送り出し、プレステージレーベルから自身クレジットのジャズアルバムもリリース。
1965年には、メジャー・レーベルのアトランティックのサブ・レーベル、アトコ・レコードに復帰、Memphis Soul Stew、Instant Grooveのヒットで一躍ブラックチャートのスターダムへ。並行してアトランティック所属アーティストのプロデュースやディレクションに注力し始め、アレサ・フランクリンの専属バンドとして当時のニューヨークのトップスタジオミュージシャンを招集しキングピンズを結成。(ジミ・ヘンドリックスや、5人目のビートルズ、ビリー・プレストンも一時在籍)
※アレサの代表作「ライブ・アット・フィルモア・ウエスト」でキングピンズのパフォーマンスを垣間見られる。
その後、デュアン・オールマンやエリック・クラプトンなどのロック系ミュージシャンらとも交流を続け、1969年には、デュアンと組んだGames People Playでグラミー賞(Best R&B Instrumental部門)を受賞。ジョン・レノンのアルバム「イマジン」に参加後、ビル・グレアムに招かれ、人種蔑視が根強く且つサイケデリック音楽全盛のフィルモア・ウエストでライブをアレサと共に行い、西海岸の音楽ファンより歓迎を受ける。その成功から引き続きサンフランシスコに留まるよう各方面より説得を受けたが、「南は退屈」とニューヨークへ戻る。
その6ヵ月後の1971年8月、レノンの新作ロックンロールのリハーサルを終えた夜、ニューヨークの自宅アパートメント前にて新品の窓用エアコンを担いでの帰宅時に、アパートの玄関を塞ぐジャンキーと道を譲れの口論となりナイフで刺され、そのまま搬送先の病院で死亡。享年37。
アトランティックレコード主催の追悼集会は、オールマン・ブラザーズ・バンド、アレサ・フランクリン、スティービー・ワンダー、レイ・チャールズ他が集まり壮大なライブを繰り広げ、最後は出演者全員でSoul Serenadeを演奏した。その2ヵ月後、後を追うように僚友デュアン・オールマンもオートバイで事故死。
[編集] 死後
カーティスの死後、バンドスタッフ(ジェリー・ジェモット、バーナード・パーディ、コーネル・デュプリー、エリック・ゲイル、チャック・レイニー、ビリー・プレストン、リチャード・ティー、スティーヴ・ガッド他多数)はそれぞれの道を歩むが、大半がスーパーセッションバンド「スタッフ」へ参加。1970年代末から始まるフュージョンブームやAORブームの原動力となった。
[編集] アルバムリリース状況
キング・カーティスのアルバムは、日本国内では大半が廃盤で入手困難。理由は、余りにも多くのレーベルを渡り歩き、且つ弱小企業が大半だった為。
海外でもレーベル問題から主要数タイトル以外のCD化は進んでいない。逆に日本のヴィンテージ専門インディペンデントレーベルがマイナーレーベル分の小口版権を買い取って、既に数タイトル(コンピ中心)を再販している。
朗報としては、全世界で長年廃盤だったフィルモアライブが、数年前のアトランティック設立記念行事一環で再CDリリース化された。