オリンピック (客船)
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船歴 | |
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起工 | 1908年12月16日 |
進水 | 1910年10月20日 |
就航 | 1911年6月14日 |
その後 | 1935年引退 |
性能諸元 | |
排水量 | 52,067 トン |
全長 | 882 ft 9 in |
全幅 | 92 ft 6 in |
吃水 | 34 ft 7 in |
機関 | |
馬力 | |
速力 | 21ノット |
乗客定員 |
オリンピック (RMS Olympic) は、1900年代にイギリスのホワイトスターライン社がイギリスやアイルランドなどヨーロッパ各地とアメリカ東海岸のニューヨークなどの航路に就航した客船。不幸で短命だった姉妹船のタイタニック、ブリタニックと異なり、24年におよぶ長い期間活躍を続け、「Old Reliable(頼もしいおばあちゃん)」の愛称を持つ。 オリンピックの名はギリシャ神話のオリュンポスからとられている。
目次 |
[編集] 概要
1912年4月14日に沈没したタイタニックの姉妹船で、造船業のハーランド・アンド・ウルフ社の会長が、ホワイトスターライン社のイズメイ社長に、ライバル関係にあったキュナード社のルシタニア・モーリタニアの姉妹船と対抗すべく三隻の大型客船造船を発案したのが発端である。その三隻の船の先駆けとしてアイルランド、ベルファストのハーランド・アンド・ウルフで起工し、ほぼ同時期に二番船タイタニックが造船され、少し遅れて三番船のブリタニックの造船が開始された。
当時は世界で最も巨大な船だといわれており、今でいう巨大クルーズ船と並ぶほどの巨大な船だった。それに加え“絶対に沈没しない”と言う不沈伝説まで生まれたが、処女航海でタグボート「O・L・ハーレンベック」を巻き込みそうになったり、1911年9月20日にはイギリス海軍の巡洋艦ホークと衝突事故を起したりと、その先行きはタイタニックの悲劇を暗示しているようにも感じられる。そして極めつけは妹船のタイタニックの沈没でその神話がもろくも崩れた。タイタニックからSOSを受信し救難に向かった船の1隻であるが、両船は800kmも離れており、沈没現場に到着したのは先に到着したカルパチアが遭難者を救助した後であった。
[編集] 姉妹船タイタニック
オリンピックは三姉妹船で、タイタニックとブリタニックの二隻の妹船が存在し、それら姉妹船をまとめてオリンピッククラスと呼んでいた。沈没事故、その後の映画などでタイタニックが有名になるが、寧ろ当時はオリンピックがその代表船であった。
タイタニックとは同時期に造船が開始された事もあって瓜二つであり、タイタニックの写真としてオリンピックの写真を使われる例がよくあった。しかし一番船として先に竣工したオリンピックの改善点を受けて、タイタニックの設計は多少変更され、外観も二つの姉妹船は多少異なっていた。その代表としてAデッキの一等専用プロムナード(遊歩道)の窓が、オリンピックは全体が海に対しベランダ状になっていたのに対し、タイタニックは前半部がガラスが取り付けられた窓に変更された。これは北太平洋の寒い強風から乗客を守るために変更された為である(後に竣工したブリタニックのプロムナードの窓もタイタニックと同じ作りである)。またタイタニックはBデッキの窓際全体が1等客室だったのに対し、オリンピックはBデッキ全体にもプロムナードデッキが設けられており、その為1等客室の数がタイタニックに比べ少なかった。
タイタニックの沈没を受けて未だブリタニックの造船も進んでいない中、オリンピックは1船体制で大西洋を駆け巡っていた。タイタニックの沈没により、ホワイトスターライン社はオリンピックの船体側面の2重構造化、救命ボートの数を倍以上に増やし乗客の信頼を取り戻すのに必死であった。
[編集] 第一次世界大戦
1914年に勃発した第一次世界大戦において、当初徴用は免れていた。1914年10月27日アイルランド北方で触雷したイギリスの戦艦オーダシャスの曳航を要請され、救助を行ったが、荒天のために曳航綱が切れ、オーダシャスは沈没した。
1915年9月にオリンピックはイギリス海軍省の命を受けて軍用輸送船として徴用された。12ポンド砲と4.7インチ機関銃を取り付け、1915年9月24日に輸送船2410として、リバプールからガリポリに向けて部隊を輸送する任務についた。その後、東地中海において、輸送任務を続けた。
この時、竣工直後の妹船であるブリタニックも病院船としての徴用を拝命されていたが、翌年の1916年にブリタニックはドイツ軍の機雷に触れて沈没してしまった。
1916年から1917年にかけて、カナダ政府の元で、ハリファクスからイギリスへの部隊輸送を行なった。1917年には、6インチ機関銃を装備し、迷彩塗装を施された。 1917年にアメリカが参戦すると、アメリカからイギリスへの大量の部隊輸送を行うことになった。
1918年5月12日に、ドイツ潜水艦U-103から雷撃を受けたが、船長バートラム・フォックス・ヘイズは、雷撃を回避した後に回頭して衝角攻撃を行い、巨大な船体を体当たりさせて撃沈した。第一次世界大戦中において、商船が軍艦を撃沈した唯一の事例と見られる。この行動には、反撃のために数千人の乗組員の生命をリスクにさらすべきではないという批判もあったが、ヘイズはアメリカ政府から殊勲十字勲章を授与されている。
第一次世界大戦を通して、オリンピックは34万7千トンの石炭を消費して、12万人の兵員を輸送し、18万4千マイルを走った。その活躍により「Old Reliable(頼もしいおばあちゃん)」という愛称で親しまれた。戦後、客船となり点検を受けた際に、喫水線の下にへこみが見つかり、調査の結果、不発の魚雷の衝突痕とされた。もし爆発していれば、沈没は免れなかったと考えられる。
[編集] 再び客船として就役
オリンピックは第一次世界大戦終結後に再び客船として就役した。その後オリンピックは20年近く現役の客船として栄光を保ち続けた。
引退後のオリンピックは解体される予定であったが、その豪華な内装を持つ船を廃棄するのは惜しいという声があがり、内装の一部がオークションにかけられた。そしてダイニングの内装をイギリスの夫人が買い取り屋敷に使った。
夫人の死後、その屋敷もまたオークションに出されていたが、世界有数の船会社であるロイヤル・カリビアン社が落札。自社の船である2000年竣工のミレニアムのレストランに使用する事に決定したのである。そのレストランは「オリンピック・レストラン」という名で呼ばれており、室内はオリンピックのダイニングがそのまま利用されている。他にもオリンピックで使われていた食器類も飾られており、タイタニックとほとんど同じ事から映画タイタニックの人気を受け、そのレストランは連日の人気である。
[編集] すりかえ説
沈没した姉妹船のタイタニックとオリンピックは、すりかえられていたという説がある。
これはまったく根拠がゼロの物ではない。完成時のスクリュープロペラが写されている写真には、スクリューにかかれている番がタイタニックの番だったり(これはタイタニックが建造中に起こったオリンピックと巡洋艦ホークとの衝突事故でスクリューが破損し、建造中であったタイタニックのものを使用し交換したという説が有力)、客船の窓数も“沈没した”タイタニックと同じ数(オリンピックとタイタニックではわずかに異なるが、会社側は、オリンピックの宣伝用として、同型船の写真を使しただけという反論もある)だったりなどというものだ。いずれも写真によるものである。
だが、たとえ同型船とはいえ、使用しはじめてからしばらくたっている船と新造船ではまったく船の感じが異なるため、恐らく都市伝説の一種だろうと推測する向きもある。しかし、決してただの噂ではなく、著作物として公刊されている。それによると、保険金詐欺を狙いにしたものだという、十分に根拠のある説となっている。[1]
[編集] 外部リンク
- RMS オリンピックエキサイト(英語)
- The RMS Olympic Restaurant on the Celebrity Millennium (Virtual Tour of ship's Plaza Deck shows panoramic view).(英語)