オタカル2世
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オタカル2世(Otakar II, 1230年? - 1278年8月26日)は、プシェミスル朝のボヘミア王(在位:1253年 - 1278年)。オーストリア公も兼ねた(在位:1251年 - 1278年)。ヴァーツラフ1世の次男。ヴァーツラフ2世は息子。ドイツ語名(Ottokar)、・ハンガリー語名(Ottokár)からオットカール2世とも呼ばれる。
1247年、兄ヴラディスラフの死によりヴァーツラフ1世の後継者となる。父の生前はモラヴィアを治めていた。バーベンベルク家の断絶に付け込み、同家の相続人であるマルガレーテとの結婚によって1251年にオーストリア公を継承する。1253年、父の死によりボヘミア王として即位すると積極的な対外政策を展開し、ダルマチアの一部を相続してハンガリー王国と対立した。さらに神聖ローマ帝国が大空位時代を迎えると、次の皇帝候補の1人となった。
しかし、ドイツ諸侯やローマ教皇にとって、スラヴ人の家系であるオタカル2世が皇帝になることは問題外だった。そのため、1273年の皇帝選挙では、ハプスブルク家のルドルフに敗北した。ルドルフはドイツ人であり、かつ当時は弱小な地方領主であまり発言力がなかったのが、他の選帝侯にとっては都合の良いところであった。これに不満を抱いたオタカル2世は、皇帝ルドルフ1世を「法衣を纏った乞食に過ぎない」と蔑んだという。ところが、1274年の帝国議会において、選帝侯たちとの間であらかじめ合意をとりつけておいたルドルフ1世は「フリードリヒ2世が(1250年に)死去した後に領主の変わった土地は全て皇帝に返還せよ。」との布告を出した。
オタカル2世の領地の大半は没収対象となった。この布告はオタカル2世にとっては到底受け入れられるものではなかったため、従うのを拒否した。1276年、皇帝ルドルフ1世はオタカル2世に対し帝国アハト刑に処した。これは帝国内におけるあらゆる権利を剥奪される刑であり、死刑に等しい厳しい罰である。オタカル2世はこの刑を無視した。ルドルフ1世とハンガリー王ラースロー4世はオーストリアを攻撃、オタカル2世は挟撃にあって、オーストリアにおける領土をほとんど奪われてしまった。この直後、オタカル2世は帝国の協定に調印し、ボヘミアとモラヴィアを除く全ての領地を放棄させられた。
オタカル2世は劣勢を挽回しようと、帝国内でルドルフ1世に不満を持っていた領主を探し回って同盟し、大軍を作り上げ、1278年に皇帝に対して戦争を開始した。ところがマルヒフェルトの戦いでルドルフ1世に大敗を喫し、戦死してしまった。
晩年はルドルフ1世の前に敗戦を重ねたが、治世の前半期はオーストリアや北イタリアに勢力を拡大したことにより、ボヘミアではオタカル大王と呼ばれることもある。
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