ウィーン交響楽団
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ウィーン交響楽団(ドイツ語:Wiener Symphoniker、英語:Vienna Symphony Orchestra: VSO)は、ウィーンを本拠地とするオーケストラである。
目次 |
[編集] 歴史
1900年、フェルディナント・レーヴェによりウィーン演奏協会管弦楽団(Wiener Concertverein Orchester)として設立された。1903年2月11日、ムジークフェラインザールにおいて、レーヴェ指揮によりブルックナーの交響曲第9番の初演を行った。1913年、本拠地をウィーン・コンツェルトハウスとし、1919年、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団と合併、1933年、現在の名称となった。1920年代、ラジオ放送開始によりコンサートの観客数を減らしたが、1938年のオーストリア併合においても存続し、ナチス政権のゲルマン文化管弦楽団(German Culture Orchestra)に組み入れられ、1944年9月1日にオーケストラが消滅するまで、ナチス政権の宣伝目的のため、軍需工場の中での演奏という任務に従事させられた。
1945年9月16日、第二次世界大戦後最初の演奏会が開かれた(マーラーの交響曲第3番)。 そして、ヨーゼフ・クリップスの指導により、10年間の空白を埋め、現代のレパートリーを回復させ、1946年夏、初めてブレゲンツ音楽祭に参加した。
1946年から、当時の首席指揮者ではなかったがヘルベルト・フォン・カラヤン指揮による「カラヤン・チクルス」が始まり、ヨーロッパや北アメリカのツアーを行った。 1959年、バチカンで教皇ヨハネ23世の前でヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮による演奏会を行った。
サヴァリッシュの下では、1962年のアン・デア・ウィーン劇場の復興演奏会、1964年のアメリカ・ツアー、1967年のアメリカ・日本ツアーが行われた。
サヴァリッシュの後、クリップス、カルロ・マリア・ジュリーニが首席指揮者となった。1980年代、ジョルジュ・プレートルが首席指揮者となり、フランス音楽のレパートリーとともに、コンサートの数も増やした。
1990年代初期、ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスが首席指揮者となり、スペイン音楽も多くレパートリーに取り入れた。1997年、ウラジミール・フェドセーエフが首席指揮者に就任した。
[編集] 主な指揮者
- フェルディナンド・レーヴェ(1900年 - 1925年、首席指揮者)
- ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1920年代、ウィーン演奏協会音楽監督)
- オズヴァルト・カバスタ(1933年 - 1938年、首席指揮者)
- ハンス・スワロフスキー(1946年 - 1948年、首席指揮者)
- ヘルベルト・フォン・カラヤン(1948年 - 1960年、ウィーン演奏協会音楽監督)
- ヴォルフガング・サヴァリッシュ(1960年 - 1970年、首席指揮者)
- ヨーゼフ・クリップス(1970年 - 1973年、芸術顧問)
- カルロ・マリア・ジュリーニ(1973年 - 1976年、首席指揮者)
- エーリッヒ・ラインスドルフ(1976年 - 1978年、首席指揮者)
- ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(1980年 - 1982年、首席指揮者)
- クリストフ・エッシェンバッハ(1982年 - 1986年、首席指揮者)
- ジョルジュ・プレートル(1986年 - 1991年、第一客演指揮者)
- ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス(1991年 - 1996年、首席指揮者)
- ウラジミール・フェドセーエフ(1997年 - 2005年、首席指揮者)
- ファビオ・ルイージ(2005年 - 、首席指揮者)