イピロス
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イピロス (ギリシャ語 Ήπειρος)はギリシャ北西部にあるペリフェリエス(地方)である。ギリシャ語に基づく日本での慣用形では「エピロス」、古典ギリシャ語読みでは「エペイロス」、ラテン語では「エピルス」と呼ぶ。
東から時計回りに周囲を西マケドニア、テッサリア、西ギリシャ、イオニア、イオニア海、アルバニアに囲まれている。イピロスはアルタ、ヨアニア、プレヴェザ、セスプロティアと呼ばれるノモス(県)に分割されている。面積は9,200平方kmで人口は約350,000。首府はヨアニアでイピロス最大の都市でもある。
歴史的に見ると、イピロスは現在のアルバニア領の一部を含んでいる。南アルバニアにはギリシャ系の住民が住んでおり、ギリシャはこの地域を北イピロスと呼称している。
イピロスはその多くを標高2,600mにも達する山脈で占めている。東部にはピンス山脈が連なり、マケドニアとテッサリアからイピロスを隔てる境をなしている。イピロスの大部分はピンダス山脈の裾野上に広がっている。イオニア海から吹く風によって、イピロスの降水量はギリシャの他の地域よりも多い。しかし、平坦な土地の不足と痩せた土壌の為、農業が盛んなわけでもない。イピロスの農業生産はギリシャでも低い位置にある。イオアニア周辺で栽培されているタバコや小規模な農業、漁業を除いて見るべきものはなく、農産物は他地方から輸入しているのが現状である。このような状況のため、イピロスは19世紀から人口が減り続けている。人口は工業、サービス業が盛んなヨアニア周辺に集中している。多くの自然、歴史的遺産があるものの、ギリシャの他の地方のように多くの観光客が訪れることはない。
[編集] 歴史
イピロスの名は古来、本土・陸地を意味していたと考えられており、本来はコリンティアコス湾より南の沿岸一帯をさす言葉であった。紀元前にギリシャ人が入植し、アドリア海沿岸に住んでいたイリア人と接していた。
イピロスは紀元前6世紀からアキレウスの子ネオプトレモスの子孫を称するMolossian王朝により統治された。デルフィに次ぐ格式を有していたドドナの神殿・神託所によりギリシャ各地のポリスからも重要視されていた。イピロスの王アリュバースの姪オリンピュアスはマケドニア王フィリッポス2世と結婚し、アレクサンドロス大王を生んでいる。
アリュバースの死後、アレクサンドロス,アイアコスが王位を継いだ。紀元前295年に王になったピュロスはイタリア半島に侵攻し、南部イタリアおよびシチリアで共和政ローマと争った。
紀元前3世紀になるとイピロスの王朝はマケドニアへの干渉を始めたが、紀元前2世紀には共和政ローマの侵攻にあい、紀元前168年ローマにより占領された。146年にはローマ領マケドニアの一部となった。
その後400年イピロスはローマの支配下にあったが、395年のローマ帝国東西分割によってコンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国の統治下に入った。第4回十字軍によりコンスタンティノポリスが陥落すると、東ローマの皇族ミカエル・アンゲロスがアルタを首府とした亡命政権を樹立(イピロス専制侯国)し、小アジアのニカイア帝国と並ぶ東ローマ系勢力の拠点となった。その後ニカイア帝国が復興させた東ローマ帝国がイピロスを併合したが長続きせず、セルビア王国のウロシュ4世、ケファロニア島・ザキントス島の貴族カルロ1世トッコなどの支配を経て、1430年にはオスマン帝国の支配下に入った。
1443年オスマン帝国に臣従していたアルバニアの貴族スカンデルベクが反旗をひるがえし、イピロスも彼の支配下に入った。しかしスカンデルベクの死後1460年にオスマン帝国により併合された。ヴェネツィア領となった海岸沿いの一部の都市を除き、その後400年間はオスマン帝国による支配が続いた。
18世紀になるとオスマン帝国の力が陰り始め、イピロスはアルバニアの豪族出身のテペデレンリ・アリー・パシャに支配された。アリー・パシャはイスタンブルから地方総督として任命されてはいたが、実際にはイオアニナを中心としギリシャ西部とアルバニアにまたがる半独立国を築き上げた。ギリシャ独立戦争が開始されると、彼は独立を確保しようとしたが、バルカン半島におけるこれ以上の勢力の後退を嫌うオスマン帝国政府により1822年殺害された。ギリシャが独立した後もイピロスはオスマン帝国領にとどまった。
1878年のベルリン会議の後、1881年にイギリスの仲介によって南部イピロスの一部がギリシャ領となり、さらに20世紀前半のバルカン戦争によって南部イピロス全域がギリシャに割譲された。北イピロスはアルバニア領とされた。
1914年に第一次世界大戦が勃発するとアルバニア全域はオーストリアにより占領された。1915年3月に結ばれた協定において戦後のアルバニアについて、北アルバニアはイタリア領とし、アルバニア南部(北イピロス)はギリシャ人自治区とすることが決定された。その後アルバニアの被保護国となっていたイタリアの要求もあり、1924年にこの自治区はアルバニアに統合された。
イタリアは1939年にアルバニアを併合し、1940年ギリシャに宣戦布告してイピロスに侵攻を開始した。1941年のナチス・ドイツ軍によるバルカン半島侵攻によってギリシャ全土は占領され、イピロスはイタリア軍政下(ピンドス公国・マケドニア公国)に入った。イピロスの山岳地帯を利用してELASを中心にレジスタンス活動が行われた(ギリシャでのレジスタンス活動)。戦後のギリシャ内戦においてもイピロスの山岳地帯が激しい戦闘の場となった。 冷戦期には、南北イピロスを巡りアルバニアとギリシャが互いに領有権を主張し、アルバニア労働党政権の崩壊後も両国の間で争いがたえない。ここ数年は両国政府は緊張関係の緩和に向けて努力を進めているようである。
現在のギリシャ共和国大統領カロロス・パプーリアス(2005年3月就任)はイピロス地方ヨアニナ出身である。
[編集] 関連項目
- 大アルバニア - ギリシャ領イピロスをアルバニアの潜在的領土とみなす、アルバニア人による民族統一主義
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