アレン・ウェルシュ・ダレス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アレン・ウェルシュ・ダレス(Allen Welsh Dulles, 1893年4月23日 - 1969年1月29日)は、アメリカ合衆国の政府高官の1人で元CIA長官。
[編集] プロフィール
1953年から1961年までCIA長官を務めた。国務長官ジョン・フォスター・ダレスの弟で、ウォーレン委員会のメンバー。さらにユナイテッド・フルーツ社の株主。日本とスイスの合作により映画化もされた西村京太郎原作の小説『D機関情報』(映画版のタイトルは『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』)に登場、日本海軍中佐と共に最後まで日米和平工作(終戦工作)に奔走した“ミスターD”のモデルと言われる。
第二次世界大戦中スイスのベルンでOSS(Office of Strategic Services, 戦略事務局 CIAの前身)にて勤務した。ヨーロッパ本部の責任者であった1945年には、スイスにおいて、当時、在ベルン日本公使館付海軍武官補佐官(駐在武官)を務めていた藤村義朗・日本海軍中佐らとの間で、和平工作(終戦工作)を行なった(この経緯が上記『D機関情報』のモチーフと見られる)。
戦後、ニューヨークで弁護士業を営んでいたが1950年にW・ベデル・スミス陸軍中将がCIA長官に就任すると、ダレスはCIA海外作戦部長の地位を得、1951年よりCIA副長官を務めた。そして1953年、アイゼンハワー政権の発足に伴いCIA長官に就任した。CIAが現在の規模にまでなったのは彼の功績によるところが大きい。彼は実兄のジョン・フォスター・ダレス国務長官とともに、アイゼンハワー政権の冷戦外交に大きな影響を与えた。任期中に、イランのモハメッド・モサデグ政権転覆作戦(エイジャックス作戦、1953年 en:Operation Ajax)やグアテマラのアルベネス・グスマン政権転覆作戦(PBSUCCESS作戦、1954年)を指揮し、また国内メディアのコントロールを図るモッキンバード作戦 (en:Operation Mokingbird) を監督した。また、ジュネーヴ協定後の初期段階のヴェトナム介入に関わった。
キューバがフィデル・カストロにより共産化されると、アイゼンハワー政権末期からダレスはピッグズ湾侵攻計画を策定した。この計画はケネディ政権に引き継がれ、4月17日に計画は実行されたが、ダレスは実行部隊である亡命キューバ人部隊には米軍の投入を約束し、反対にケネディには米軍の介入なしに作戦を成功できると確約して二枚舌を使ったため、作戦は失敗した。このため1961年11月、ダレスはケネディにより解任された。
1963年11月ケネディが暗殺されると、ウォーレン委員会のメンバーに任命された。ジョンソン政権下では賢人会議のメンバーとなり、アメリカのヴェトナム政策に影響を与えた。また、1969年にニクソン政権が発足すると、国家安全保障会議のメンバーとなった。
[編集] 関連項目
|
|
|