韓信
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韓信 | |
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出生 | 不詳 淮陰 |
死去 | 196年 長安城・未央宮 |
職業 | 軍人 |
各種表記 | |
簡体字 | 韓信 |
繁体字 | 韓信 |
ピン音 | Hán Xìn |
発音転記 | ハン シン |
英語名 | Han Xin |
韓信(かん しん、ピンイン: Hán Xìn(ハン シン)、? - 紀元前196年)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に劉邦配下の三傑の1人。世界軍事史上の名将としても知られる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 淮陰の股くぐり
淮陰(現:江蘇省淮安市)の出身。貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。こんな有様であった為、淮陰の者はみな韓信を見下して、いよいよ当ての無くなった韓信は数日間何も食べないで放浪し、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる有様であった。韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたが可哀想だからしてあげただけのこと。御礼なんて望んでいない」と語ったという。
ある日のこと、韓信は町の少年に「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。出来ないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑った(「韓信の股くぐり」)という。またこれにより「股夫(こふ)」というあだ名も付いた。 大いに笑われた韓信であったが、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。
秦の始皇帝の没後、陳勝、呉広の挙兵(陳勝・呉広の乱)を機に大規模な動乱が始まると、紀元前209年に韓信は項梁、次いでその甥の項羽に仕えて郎中となったが、項羽に度々進言した内容は用いられることはなかった。
[編集] 劉邦配下として
紀元前206年、秦の滅亡後、韓信は項羽の下から離れ、漢中に左遷された漢王劉邦の元へと移る。しかし、ここでも連敖(接待係)というつまらぬ役しかもらえなかった。
ある時罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになった。たまたま劉邦の重臣の夏侯嬰がいたので、「漢王は天下に大業を成すことを望まれないのか。どうして壮士を殺すような真似をするのだ。」と訴え、韓信を面白く思った夏侯嬰は、韓信を劉邦に推薦した。
劉邦はとりあえず韓信を治粟都尉(兵站官)としたが、韓信に対してさほど興味は示さなかった。自らの才能を認めて欲しい韓信は漢軍の兵站の責任者である蕭何と何度も語り合い、蕭何は韓信を異才と認めて劉邦に何度も推薦するが、劉邦はやはり受け付けなかった。
この頃の漢軍では、辺境の漢中に居ることを嫌って将軍や兵士の逃亡が相次いでいた。そんな中、韓信も逃亡を図り、それを知った蕭何は劉邦に何の報告もせずにこれを慌てて追った。劉邦は蕭何まで逃亡したかと誤解し、蕭何が韓信を連れ帰ってくると強く詰問した。 蕭何は「逃げたのではなく韓信を連れ戻しに行っていただけです」と説明したが、劉邦は「他の将軍が逃げたときは追わなかったではないか。なぜ韓信だけを引き留めるのだ」との問いに対して、蕭何は「韓信は国士無双であり、他の雑多な将軍とは違う。(劉邦が)この漢中にずっと留まるつもりならば韓信は必要無いが、漢中を出て天下を争おうと考えるのなら韓信は不可欠である」という内容を劉邦に返した。これを聞いた劉邦は、ついに韓信の才を信じ、全軍を指揮する大将軍の地位を任せた。
韓信はこの厚遇に応え、劉邦に漢中の北の関中を手に入れる策を述べた。即ち項羽の強さは弱めやすいものである(婦人の仁、匹夫の勇~本人は情があり勇敢だが部下を重んじず恩賞を与えない)。劉邦は項羽の逆を行えば天下を手に入れられる。関中の三秦の王は20万の兵士を見殺しにした元将軍達であり人心は離れている。その逆に劉邦は以前咸陽で略奪を行わなかったなどの理由で人気があるため、関中はたやすく落ちる。劉邦はこれを聞き大いに喜び、諸将もこの大抜擢に納得した。
劉邦はこの年の八月に関中攻略に出兵し、これに成功。関中を本拠地として項羽との対決に臨む。
その頃、各地で項羽の政策に反発する諸侯による反乱が相次ぎ、項羽はその対応(特に斉)に手を焼いていた。紀元前205年、その隙を突いて、劉邦は総数56万と号する諸侯との連合軍を率いて親征し、項羽の本拠地・彭城を陥落させたが、斉から引き返して来た項羽の軍に大敗し、命からがら榮陽に逃走した(彭城の戦い)。
[編集] 躍進
韓信は劉邦に同行していたが、途中で兵をまとめると追撃してきた楚軍を迎撃し、劉邦の撤退を助けた。
体勢を立て直した劉邦は、自らが項羽と対峙している間に韓信の別働軍が諸国を平定するという作戦を採用した。まずは、漢側に付いていたが裏切って楚へ下った魏の魏豹を討つことにし、劉邦は韓信に左丞相の位を授けて討伐に送り出す。
魏軍は渡河地点を重点的に防御していた。韓信は囮(おとり)の船を並べてそちらに敵を引き付け、その間に上流に回り込んで木の桶で作った筏(いかだ)で兵を渡らせて魏の首都・安邑(現:山西省夏県の近郊)を攻撃し、魏軍が慌てて引き返したところを討って魏豹を虜にし、魏を滅ぼした。魏豹は命は助けられたが、庶民に落とされた。
この後、北に進んで代を占領し、さらに趙へと進軍した。韓信は「背水の陣」と称される戦術を採り、20万と号した趙軍を打ち破って陳余と趙王趙歇を斬った(井陘の戦い)。続いて、趙の将軍であった李左車の進言を入れ、燕の臧荼に使者を送って降伏させた。紀元前204年、鎮撫のために張耳を趙王として建てるように劉邦に申し出てこれを認められた。
この間、劉邦は項羽に対して不利な戦いを強いられ、韓信は兵力不足の漢軍に対して幾度も兵を送っていた。しかしついに劉邦は楚の包囲から逃げ出し、韓信たちがいた修武(現:河南省西北)まで来ると幕舎で寝ている韓信の所に忍び込んで怒鳴りつけ、指揮権を奪ってしまった上に、韓信に斉を平定するように言いつけた。 ところが劉邦は韓信を派遣したあとに気が変わり、儒者の酈食其を派遣して斉と和議を結んだ。紀元前203年、韓信は斉に攻め込む直前であったが、既に斉が降ったと聞いて軍を止めようとした。
しかしこの時、韓信の軍中にいた弁士蒯通は「(劉邦から)進軍停止命令は未だ出ておらず、このまま斉に攻め込むべき。酈食其は舌だけで斉を降しており、このままでは韓信の功績は一介の儒者に過ぎない酈食其に功績に劣る(斉は70余城を有し、韓信の落とした50余城より多い)と見られるだろう」という内容を進言し、韓信はこの進言に従って斉に侵攻した。備えのなかった斉の城は次々と破られ、怒った斉王の田広は酈食其を殺害して逃亡した。
斉は楚に救援を求め、項羽は将軍竜且と20万の軍勢を派遣する。竜且は持久戦に持ち込むことを進言されたが、以前の「股夫」韓信を知っていたので、侮って決戦を挑んだ。韓信も竜且は勇猛であるから決戦を選ぶだろうと読み、広いが浅い河が流れている場所を戦場に選んで迎え撃った。このとき、韓信は決戦の前夜に河の上流に土嚢を落とし込んで臨時の堰を作らせ、流れを塞き止めさせていた。韓信は負けた振りをして竜且の軍をおびき出し、楚軍が河を渡ろうとした所で堰を崩させた。怒涛の如く押し寄せた水流に竜且の20万の軍勢は散り散りとなり、竜且は捕虜になって斬刑に処された。
斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の鎮撫のために斉の仮王となりたいと申し出た。劉邦は韓信の身勝手さに激しく反発したが、張良と陳平に諌められ、一転「仮王などとは言わずに、真の王となれ」と許可した。
斉王となった韓信に項羽も恐れを感じ始め、武渉という者を派遣した。武渉は韓信に楚に味方するよう説き、劉邦は見逃してやっても攻めてくるような義理のない信頼できない人物であるため、あなたにとって従わない方が良い主君だとも説いた。韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、劉邦に大抜擢され、さらに斉王に封じられたことを恩義に思っていたため、これを即座に断った。この後に蒯通から「天下の要衝である斉の王となった今、漢、楚と天下を三分し、両者が争いに疲れた頃に貴方が出てこれを纏めれば、天下は付いてくる」と進言され、韓信も大いに悩んだが、結局これを退けた。蒯通は後難を恐れ、狂人の振りをして出奔した。
[編集] 絶頂期
その頃、楚漢の戦いは広武山での長い持久戦になっており、疲れ果てた両軍は一旦和睦してそれぞれの故郷に帰ることにした。しかし劉邦はこの講和を破棄し、撤退中の楚軍に襲い掛かった。韓信にもこれに加わるように要請が来るが、韓信はこれを黙殺したために劉邦は敗れる。焦った劉邦は張良の進言により、韓信に対して改めて戦後の斉王の位を約束し、再び援軍を要請した。 ここに及んで韓信は30万の軍勢を率いて参戦。これを見て諸侯も続々と漢軍に参戦する。漢軍は垓下に楚軍を追い詰め、垓下を脱出した項羽は烏江(現:安徽省巣湖市和県の烏江鎮)で自決し、5年に及んだ楚漢戦争はようやく終結した(垓下の戦い)。
紀元前202年、項羽の死が確認されると、劉邦は韓信を斉王から楚王へと移した。これは項羽亡き後の楚王であり、楚は韓信の故郷があるため、名誉であり栄転であった。(しかし一方で、城の数では七十余城から五十余城へ減った)。
故郷の淮陰に凱旋した韓信は、かつて飯を恵んでくれた老女に大金を与え、またかつて自分を侮辱した少年を探し出して中尉(治安維持の役)の位につけた。その際に「あの時、この者を殺すのは容易かったが、それで名が挙がるわけでもない。我慢して股くぐりをしたから今の地位にまで登ることが出来たのだ」と自慢した。また、居候していた亭長には「世話をするなら最後までちゃんと面倒を見よ」と戒め、百銭を与えた。
[編集] 転落
紀元前201年、楚の将軍・鍾離昧を匿ったことで劉邦の不快を買い、また韓信の異例の大出世に嫉妬したものが「韓信に謀反の疑いあり」と讒言したため、これを弁明するために自害した鍾離昧の首を持参し、謁見したところを捕縛された。韓信は「狡兎死して良狗煮られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので私もまた煮られるのか」と范蠡の言葉を引き、劉邦は謀反の疑いについては保留して、韓信を兵権を持たない淮陰侯へと降格した。
韓信はそれ以降、長安の屋敷でうつうつと過ごした。ある時、舞陽侯の樊噲の所に立ち寄ったが、韓信を尊敬する樊噲は礼儀正しく韓信を“大王”、自らを“臣”と呼んで最大限の敬いを見せたが、韓信は「生きながらえて樊噲などと同格になっている」と自嘲した。
劉邦はよく韓信と諸将の品定めをしていた。劉邦が韓信に「わしはどれくらいの将であろうか。」と聞くと、韓信は「陛下はせいぜい十万の兵の将です。」と答えた。劉邦が「ではお前はどうなんだ。」と聞き返したところ、「私は多ければ多いほど良い(多々益々弁ず。原文は「多多益善」)でしょう。」と韓信は答えた。劉邦は笑って「ではどうしてお前がわしの虜になったのだ。」と言ったが、韓信は「陛下は兵を率いることが出来なくても、将に対して将であることができます(将に将たり)。これは天授のものであって、人力のものではありません。」と答えた。
[編集] 最期
歳月は流れ、陳豨が鉅鹿太守に任命された。韓信を尊敬していた陳豨は、出立にあたり長安の韓信の屋敷に挨拶にやってきた。韓信は陳豨に、あまりの冷遇にもう劉邦への忠誠はなく、もはや私が天下を取るまでだと言い放ち、一計を授けた。劉邦の信頼が篤い陳豨が謀叛すれば、劉邦は必ず激怒して自ら討伐に赴き、長安は空になる。しかし鉅鹿は精兵の居る要衝であるから、容易には落ちないだろう。そしてその隙に自分が長安を掌握する。反乱の頻発に現れているように天下には不満が渦巻いているので、諸国も味方に付くだろう、というのである。 紀元前196年の春、果たして陳豨は鉅鹿で反乱を起こした。信頼する陳豨の造反に激怒した劉邦は、韓信の目論見通りに鎮圧のために親征し、都を留守にした。韓信は、この機会に長安で反乱を起こし、囚人を解放して配下として呂后と皇太子の盈を監禁して政権を奪おうと謀った。だが韓信に恨みを持つ下僕がこれを呂后に密告したため計画は事前に発覚してしまう。呂后に相談された相国の蕭何は、韓信にまともに当たっても危険だと考え、一計を講じる。まず「陳豨が討伐された」という噂を流し、さらに韓信を「病身であることは知っているが、自身に掛けられた疑いを晴らすためにも、親征成功の祝辞を述べに参内した方が良い」と招いた。そして韓信は何の疑いもなくおびき出され、捕らえられてしまう。用意周到に謀反を計画し、慎重さにもぬかりのなかった韓信だが、自分を大いに買って引きとめ、大将軍に推挙してくれた蕭何だけは信用していたため、誘いに乗ってしまったのである。そして韓信は劉邦の帰還を待たずに長安城中の未央宮内で斬られ、彼の三族も処刑された。
韓信は死ぬ間際に「蒯通の勧めに従わなかったことが心残りだ」と言い残した。韓信の死後、陳豨の討伐を終えて帰ってきた劉邦は、最初は韓信が死んだことに悲しんだものの、韓信の最期の言葉を聞いて激怒し、蒯通を捕らえて殺そうとした。しかし蒯通が堂々と抗弁したために、命は助けて解放した。
[編集] 韓信を扱った作品
韓信の生涯を扱ったものとして、『淮陰侯韓信(邦題:項羽と劉邦 背水の陣)』がある。