鍾離昧
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鍾離 昧(しょうり ばつ、生年不詳 - 紀元前201年)は、秦末から前漢初期にかけての武将。なお、表記、および読みについては後述する。
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[編集] 鍾離「昧」? 鍾離「眛」? 鍾離「昩」? 鍾離「眜」?
この人物は鍾離(しょうり)を姓とするが、その名について、「昧」「眛」「昩」「眜」とする史料とがある。
唐・顔師古は『漢書』巻34・韓彭英盧呉伝の註において「莫葛反」(「莫」と「葛」の反切)としており、これに従えば音は「ばつ」となる。「昩」「眜」の音は「ばつ」であるが、「昧」「眛」の音は本来「まい」である。
なお、佐竹靖彦『劉邦』[1]は、通用本『史記』では「眜」と表記されるところ、同書では国宝『史記』に従って「昩」と表記する旨述べる。
本稿は「眜」と記述する中華書局本によって作成しており、以降「鍾離眜」とする。
[編集] 出身地
『史記』巻92・淮陰侯列伝や『漢書』韓彭英盧呉伝によれば、鍾離眜は伊盧の人である。この「伊盧」の所在地について見解が分かれている。
なお、佐竹靖彦は、鍾離眜はそもそも伊盧の出身ではなかったとする。
[編集] 湖北省説
南朝宋・裴駰『史記集解』は、三国呉・韋昭の「伊廬は漢の中廬縣である」との説を紹介し、これを支持する。また、唐・張守節『史記正義』 は、唐・李泰『括地志』の「中廬は義清縣の北二十里にあり、春秋時代の廬戎の國であった。秦はこれを伊廬と称し、漢代に中廬縣となった。項羽の部将・鍾離眜の家がここにあった」との記事を引用し、韋昭や『括地志』の見解を支持する。
中廬縣は現在の湖北省襄樊市付近に相当する。
[編集] 江蘇省説
『史記集解』は、韋昭の説に先立って東晋・ 南朝宋の徐廣による「東海(郡)の朐縣に伊廬郷という地があった」との説を紹介する。なお、唐・司馬貞『史記索隠』 によれば、徐廣の見解は東晋・司馬彪『續漢書』郡国志を根拠とするとのことである。
さらに、顔師古は『漢書』韓彭英盧呉伝の註において、前漢・劉徳の「東海(郡)の朐の南にこの邑(伊廬)があった」との説と、韋昭の説とを併記した上、「韋昭の説は誤りである。中廬は襄陽の南である」としている。
朐縣は現在の江蘇省連雲港市付近に相当する。
[編集] 「鍾離眜=蒲将軍」説
『史記』には項羽の部将として、「蒲将軍」なる人物の事績が散見される。佐竹靖彦は、この蒲将軍が鍾離眜と同一人物ではないかと指摘する[2]。その理由として、鍾離眜は鍾離という都市(寿春から淮水を下ること150キロ、当時の懐王の楚都である盱台と寿春との中間点にあった)の出身と思われること、さらに、鍾離の北70キロにある蒲姑陂という地名が蒲将軍の名の由来である可能性があること、を挙げる。
なお、このように解する場合には、「項王の亡将鍾離眜の家は伊盧にある」とする『史記』・『漢書』(上記「出身地」を参照)との整合性が問題となる。
[編集] 生涯
『史記』・『漢書』によれば大略以下の通りである。
鍾離眜は秦末、楚の項梁・項羽の挙兵に参加し、秦滅亡後の楚漢戦争においても項羽の部将として活躍した。しかし、劉邦配下の陳平の計略により、鍾離眜は項羽に疎んじられるようになった。
項羽の死後、鍾離眜は旧友の韓信のもとに身を寄せた。帝位に即いた劉邦は韓信を楚王に封じたが、鍾離眜が楚にいることを知った劉邦は、鍾離眜を逮捕する旨楚に詔を下した。劉邦はかねてから鍾離眜に怨みを抱いていたのである。
さらに、韓信の謀反を讒言する者があった。劉邦は陳平の計に従い、南のかた雲夢に巡狩すると称して陳に諸侯を集め、韓信を襲おうとした。韓信は劉邦に拝謁して二心なきことを自ら弁じようとしたが、逮捕を恐れて劉邦に会わずにいた。
そこで、ある人が韓信に「鍾離眜を斬れば許されるでしょう」と説き、韓信はこの策を採った。これを知った鍾離眜は、「漢が楚を攻撃しないのは、私が貴公に身を寄せているからだ。もし貴公が私を捕えて漢に媚びようとするならば、私は今日にでも死ぬが、貴公もいずれ滅びるであろう」と言い、「貴公は有徳の人ではない」と韓信を罵って自刎した。
韓信は鍾離眜の首級を持って陳で劉邦に拝謁したが、逮捕を免れることはかなわず、淮陰侯に降格された。
[編集] 子孫
『新唐書』表15上・宰相世系5上によれば、鍾離眜には長子の發・次子の接の2子があった。發は九江に住み、鍾離氏を名乗り続けた。他方、接は潁川長社に住み、鍾氏に改姓した。
後漢の鍾離意、その7世孫の三国呉の鍾離牧は會稽郡山陰の出身であり、眜・發との血縁関係を有する可能性もある。しかし、これを証明する史料は現在のところ示されていない。
また、新唐書は鍾氏の系譜として、鍾接の次に後漢の鍾皓・鍾迪、三国魏の鍾繇・鍾会らを列挙している。かれらはみな潁川長社の出身である。ただ、接から皓までの間に何代の隔たりがあるかは記載していない。
[編集] 脚注
- ^ 佐竹靖彦『劉邦』中央公論新社、2005年、271頁。ISBN 4-12-003630-8
- ^ 前述『劉邦』、271頁