夏侯嬰
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夏侯 嬰(かこう えい、生年不詳 - 紀元前172年)は、秦・前漢時代の中国の武将。劉邦の武将。劉邦と同じく沛県の出身。
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[編集] 略伝
[編集] 劉邦を慕う
若くして劉邦を慕っていた。間もなく県の厩舎係(馬車の御者)・書記を務めた。
劉邦が挙兵し反秦連合に参加して沛公となると、その功績により太僕に任命され、後に滕公に封じられる。その後、ずっと太僕として劉邦に従軍する。また、韓信の器量を見抜き、国士として推挙した一人である。
彭城の戦いで敗北した際に、夏侯嬰は劉邦と劉邦が連れてきた息子の劉盈(のちの恵帝)と娘の魯元公主と共に逃げるが、追っ手に追いつかれると恐怖した劉邦は劉盈と魯元公主を馬車から突き落とす。夏侯嬰は2人を拾い上げたので、劉邦は怒って夏侯嬰を斬ろうとしたが、結局一行は揃って味方陣営へ逃げ帰ることが出来た。これにより、劉一門からの信任が篤くなった。その功績で昭平侯に封じられた。
[編集] 元勲として
高祖(劉邦)が項羽の西楚を滅ぼして天下統一を成すと、それまでの功績で汝陰侯に累進した。
ある時、夏侯嬰は魯の大侠客の朱家から依頼されて面会し、朱家に匿われた元・楚の将軍の季布を救助すべく説得を受けた。夏侯嬰は朱家の議論とその器量に感服し、機を見て高祖に上奏した。季布は赦免され、郎中に任命されて高祖に仕え、後に河東郡太守に累進した。[1]
晩年は、呂氏が滅びると少帝弘らを自ら宮中より追い出し、陳平、周勃、灌嬰らと共に高祖第4子で20余歳の代王・劉恒(太宗・文帝)を擁立した。
[編集] その末裔たち
夏侯嬰の嫡子の夏侯竈(夷侯)、孫の夏侯賜(共侯)が世襲した。夏侯賜の嗣子の夏侯頗が亡父の跡を継いで、平陽公主(景帝の娘)を娶るが、夏侯頗は淫乱で亡父の側室と密通した過度により、前115年に自決を命じられて死に、国は召し上げられた。以降の夏侯氏の消息は不明である。なお、夏侯頗の妻の平陽公主が「孫公主」と呼ばれていたことから、夏侯頗の子孫は「孫氏」を名乗るようになった。
後漢末の夏侯惇らは夏侯嬰の末裔という[2]。また魏の礎を創った曹操の父曹嵩はもともと夏侯惇の叔父に当たる夏侯氏で、宦官曹騰の養子になり曹の姓を名乗ることになったとの説がある[3]。