見沼
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見沼(みぬま)とは、かつて武蔵国、今の埼玉県さいたま市にあった巨大な沼である。現在も広い水田があり、「見沼田んぼ」と呼ばれている。
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[編集] 歴史
- 1629年、広大な沼沢地であったこの地を関東郡代の伊奈半十郎忠治が木曽呂村、附嶋村(現在のさいたま市 緑区 大間木 八町、附島付近と川口市木曽呂付近)に長さ約870m(8町)の堤防「八丁堤」を建設し水を溜めた。この周囲の灌漑用水を確保するための溜池を、「見沼溜井」と称した。
- 1727年 享保の改革期、幕府、徳川吉宗が勘定吟味役の井沢弥惣兵衛に命じて見沼を干拓、溜井に変わる水源として、見沼代用水を現行田市の利根川から約60キロメートルにわたり開削、農業用水とした。以後新田開発され、肥沃な穀倉地帯となる。
- 1934年 東京市が、村山貯水池(多摩湖)・山口貯水池(狭山湖)に続く第三の貯水池の建設場所として、見沼新田一帯とする計画を発表するが、水没対象となる地域の市町村、すなわち浦和市 、尾間木村、三室村、野田村、大宮町、七里村、春岡村、片柳村、大砂土村(以上現さいたま市)、原市町(現上尾市)、芝村、神根村(以上現川口市)、大門村(現さいたま市および川口市)の農民らが猛反対し反対運動を起こす。
- 1939年 東京市が貯水池計画を撤回する。
- 1965年 埼玉県が、「見沼田圃農地転用方針」(通称「見沼三原則」)を制定し、見沼地区の農地転用を制限、原則として開発行為が不可能となる。
- 1969年 埼玉県が、「見沼田圃の取扱いについて」(通称「見沼三原則補足」)を制定する。
- 1995年 埼玉県が、「見沼三原則」・「見沼三原則補足」に代わる新たな土地利用の基準として「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」を策定する。
これ以後現在に至るまで、急速な都市化の波が押し寄せたにもかかわらず、首都圏最大と言われる緑地帯を保ってきている。
現在も見沼地区は保全することが決められており、大宮駅、さいたま新都心から比較的近い上山口新田、新右ヱ門新田でも農地が残っている。一部市街化、公園化しているがほぼ原型を保っている。将来的には、「見沼に100haの公園緑地帯を創出させる」と言う見沼セントラルパーク構想という計画に基づき、その手始めとして、大宮区内に「合併記念見沼公園」が2007年に開園した。
[編集] 地域
見沼に当たる区域は下記。
- 芝川、見沼代用水西縁沿い 川口市行衛、緑区下山口新田、蓮見新田、大間木の東部、大牧の東部、大崎の西部、大字見沼、宮後、新宿、大道、三浦、浦和区三崎、大原、見沼区新右ヱ門新田、上山口新田、中川の一部、見山、西山新田、西山村新田、片柳の南部、大宮区天沼町の東部、堀の内町の東部(公園化)、寿能町の東部、北区見沼(2丁目公園化)、本郷町の西部(JR車輌基地化)、見沼区砂町2丁目など
- 加田屋川、見沼代用水東縁沿い 緑区南部領辻の東部、見沼区片柳の西部、片柳東、加田屋、加田屋新田、膝子の東部、大谷の西部、東宮下の一部(団地化)、新堤の南部(団地化)、大谷の北部(団地化)など
[編集] 伝説
見沼周辺の村々には多くの伝説がある
- 竜神伝説 見沼には竜神が住んでいるとされ、その竜神が住んでいると考えられていた四本竹という場所(現緑区 下山口新田 四本竹、現在、貯水池が建設中で蓮見新田、行衛などとともに芝川第一貯水池になる予定)では近隣の氷川女体神社(大宮区の氷川神社が有名だが、これと見沼区中川の中山神社(簸王子社・中氷川神社と呼ぶこともある)、氷川女体神社でひとつと考えられていた。)が竜神を鎮めるために磐船祭という行事を行っていた。見沼が干拓されるにあたって竜神は見沼に住めなくなってしまうので美女に姿を変え井沢弥惣兵衛のもとにお願いをしに行った、また怒って嵐をおこしたなどといわれている。しかし見沼の干拓は完了してしまい、竜神は天に昇っていったという。また大門の間宮村や現川口市の差間村、行衛村などでは竜神は印旛沼に引っ越したとも言い伝えられる。
- 見沼の笛 見沼周辺の村々では夕暮れ時になるとどこからか美しい笛の音が聞こえてきて、村人の若い男性たちは、この音色に誘われて歩いてゆき、見沼で姿を消してしまうという事件が相次いだ。そこで村では供養塔を建立すると、このような怪事は起きなくなったという。
ここでは割愛するが、他にも多くの伝説、伝承の類が伝わっており地元で発行された郷土資料や絵本に収録されている。
[編集] 現代の見沼
市民、自治体は熱心に保全活動をしてはいたが、首都圏25キロ圏といった立地や戦後からの劇的な市街化によって見沼も少なからず影響を受けている。芝川、加田屋川では下水の流入により水質は悪化、以前の清流を失ってしまっている。また見沼の緑地においても、缶ビンから家具、車輌に至るまで、不法投棄も多い。
また緑区上野田にある野田山は「野田のさぎ山」とよばれ、鷺の繁殖地であった。これは、日光御成街道を通る江戸幕府の将軍も立ち寄って鷺を見たという有名な繁殖地で、明治には禁猟区、昭和には特別天然記念物に指定された。しかし、都市化の波は避けられず、日光御成街道は国道122号となり(現在は東北自動車道の側道として建設したバイパスが122号になっており、御成街道は1986年に埼玉県道105号さいたま鳩ヶ谷線に完全降格された)交通量も増加した上に、水田も減少(畑に転作)したことで、いつしか鷺は姿を消した。天然記念物の指定も1984年に解除されて、「さぎ山記念公園」としてその名をとどめている。
また政令指定都市移行に伴う行政区の設置では、「見沼区」の区名案に対し区民が「田舎臭い」「イメージが悪い」などと反発し署名運動を展開(これは市民投票の結果を反映していないという主張もある)し、テレビ報道もされ、「伝統的な地名をないがしろにする住民こそが田舎者」などと揶揄されたりもした。特に見沼区の蓮沼という地域では、「沼という文字が二つも入るなんて、沼を埋め立てたように思われるし、イメージが悪くて住宅も売れなくなる」という声も聞かれた。見沼の保全に熱心な市民もいるのだが、付近はベッドタウン的な性格の町であり、他方からの移住者が多く、新旧住民の間に“沼”に対するイメージや関心に差異があるためと思われる。一部では旧大宮市東部を見沼区とし、同じく見沼にゆかりのある旧浦和市東部を「緑区」としたことが、前述の“沼”に対するイメージダウンを恐れた企業などによって、「見沼区」と呼称する地域について政治的圧力がかけられた、とする声も存在する。住民投票で案の上位にない区名が採用された経緯からも疑問視されており、県央地域としての旧浦和・旧大宮の地域間対立がその根底にあると思われる。
見沼の今後についてはさいたま市の都市計画にも重要な課題であり、市民の財産としても大切な資源であるので今後の市の計画などが期待されている。