リアンダー・パエス
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リアンダー・パエス |
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基本情報 |
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ラテン文字名 | Leander Paes |
国籍 | インド |
出身地 | 同・カルカッタ |
生年月日 | 1973年6月17日(35歳) |
身長 | 177cm |
体重 | 77kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 片手打ち |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1991年 |
ツアー通算 | 40勝 |
シングルス | 1勝 |
ダブルス | 39勝 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | 2回戦(1997・2000) |
全仏 | 2回戦(1997) |
全英 | 2回戦(2001) |
全米 | 3回戦(1997) |
キャリア自己最高ランキング |
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シングルス | 73位 |
ダブルス | 1位 |
Template |
オリンピック | ||
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男子 テニス | ||
銅 | 1996 | シングルス |
リアンダー・パエス(Leander Paes, 1973年6月17日 - )は、インド・カルカッタ出身の男子プロテニス選手。同じインドのマヘシュ・ブパシと並んで、アジアの男子プロテニス界を代表する選手のひとりである。ブパシと同じく、ダブルスを得意とする選手。これまでにATPツアーでシングルス1勝、ダブルス39勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス73位、ダブルス1位。身長177cm、体重77kg、右利き。
パエスの家族は、父親がインドのホッケー代表選手として1972年ミュンヘン五輪の銅メダルを獲得した経歴を持ち、母親はバスケットボール選手であった。息子のリアンダーは1990年、17歳の時にウィンブルドンの男子ジュニアシングルス部門で優勝し、1991年にプロ入りした。1996年のアトランタ五輪で、リアンダー・パエスは男子シングルス準決勝でアメリカ代表のアンドレ・アガシに敗れたが、準決勝敗退選手2名による「銅メダル決定戦」でブラジル代表のフェルナンド・メリジェニを 3-6, 6-2, 6-4 の逆転で破って銅メダルを獲得した。これはインドのスポーツ選手として、1980年モスクワ五輪以来のメダル獲得であり、個人競技でのメダルは1952年のヘルシンキ五輪以来であった。
パエスは1997年からマヘシュ・ブパシと組んで、男子テニスツアーで多数のダブルス優勝を記録し始める。1999年にはブパシと組んで全仏オープンとウィンブルドンの男子ダブルス優勝を果たす。2000年のシドニー五輪で、パエスはインド代表として開会式の旗手を務めた。2001年3月26日、リアンダー・パエスとマヘシュ・ブパシは2人一緒にインドの最高名誉賞である「パドマ・シュリー」(Padma Shri)を政府から授与された。
2003年、リアンダー・パエスはダブルスに復帰したマルチナ・ナブラチロワと混合ダブルスのペアを組み、全豪オープンとウィンブルドンの混合ダブルスで優勝を飾った。最近のパエスは、チェコのマルティン・ダムとペアを組んでトーナメントに出場することが多い。
シングルスでのパエスは、2002年以後はデビスカップのシングルス戦と地元インドの「チェンナイ・オープン」のみに出場を絞り、男子ツアー大会のシングルスにはほとんど出場していない。4大大会では、1997年全米オープンでセドリック・ピオリーン(フランス)と対戦した3回戦進出が最高成績である。