ユトランド沖海戦
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ユトランド沖海戦 | |
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戦争:第一次世界大戦 | |
年月日:1916年5月31日から6月1日 | |
場所:北海、デンマーク沖 | |
結果:ドイツの戦術的勝利、イギリスの戦略的勝利 | |
交戦勢力 | |
イギリス | ドイツ |
指揮官 | |
ジョン・ジェリコー大将、デイビッド・ビーティー中将 | ラインハルト・シェア中将、フランツ・フォン・ヒッパー中将 |
戦力 | |
151隻 | 99隻 |
損害 | |
14隻沈没、戦死6,094、戦傷510、捕虜177 | 11隻沈没、戦死2,551、戦傷507 |
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ユトランド沖海戦(英語: The Battle of Jutland,英語読みはジュットランド、独: Skagerrakschlacht: スカゲラックの戦い、あるいは、Schlacht von Jütland:ユトランド沖海戦、デンマーク語: Søslaget ved Jylland/Søslaget om Skagerrak)は、デンマークのユトランド半島沖で生起した第一次世界大戦最大の海戦。同大戦中唯一の主力艦隊同士による決戦であった。現地の発音を採用して日本では記事名通りの名称が知られている。著名な軍事史家リデル・ハートは(「第一次世界大戦」からの引用)、史上この戦闘ほどインクを費やさせた戦闘はないと評した。
目次 |
[編集] 概要
海戦は1916年5月31日から6月1日にかけてユトランド半島沖の北海でドイツ海軍(帝国海軍)の大洋艦隊(ラインハルト・シェア中将指揮)とイギリス海軍の本国艦隊(サー・ジョン・ジェリコー大将指揮)が戦った。
ドイツはフランツ・フォン・ヒッパー中将指揮する巡洋戦艦5隻からなる索敵部隊を用い、サー・デイビッド・ビーティー中将指揮下の巡洋戦艦戦隊をドイツ艦隊本隊の進路へと誘導し、それを撃滅する計画を立てた。しかしイギリスは、すでに通信傍受によって主力艦隊の作戦行動を予想しており、5月30日にはジェリコーは本国艦隊をビーティーの艦隊と合流すべく出撃した。
5月31日の午後にはビーティーとヒッパーは互いに遭遇し、南へと向かう戦闘によってヒッパーはイギリス艦隊をドイツ大洋艦隊の進路に引き込んだ。ビーティーは本国艦隊の方向へ引き返し、18時30分から20時30分ごろまで英独の2つの大艦隊(151隻のイギリス艦隊、99隻のドイツ艦隊)が激しく交戦した。14隻のイギリス艦と11隻のドイツ艦が沈没し、多大な人命が失われた。ジェリコーは翌朝の戦闘再開を望んでドイツ艦隊の基地への退路を絶とうとした。しかしシェアは夜陰に乗じてイギリス艦隊の航跡を横切り、港へと帰還した。
双方とも勝利を主張した。イギリスはドイツより多くの艦船と乗員を失ったが、ビーティーの艦隊を殲滅しようとするシェアの作戦も失敗に終わった。戦争の残りの期間、1916年8月と1918年4月の短い出撃を除いて大洋艦隊は港に留まっていた。ドイツ艦隊の脅威は続き、イギリス艦隊主力は北海に集中せざるを得なかったが、ドイツが二度と制海権を争うことはなかった。 その代わり、ドイツ海軍は潜水艦を用いた通商破壊作戦(無制限潜水艦戦)に注力することになる。
[編集] 背景
[編集] 1916年当時の海軍戦術
- 航行序列
- 一般的には、艦隊が容易に運動できるよう、戦場に接近するまでは複数の平行縦陣で進撃すべきであるとされていた。長い単縦陣だと隊形を維持する手間がかかるのに比べて、複数の短い縦陣の方が迅速に回頭できた。さらに旗艦(通常、中央縦陣の先頭に位置する)からの旗もしくはサーチライトによる通信も、多くの艦から視認できる。単縦陣の場合、先頭の旗艦から最後尾に伝達されるには10分あるいはそれ以上かかり、煙突からの煙は、しばしば同一隊列の前方・後方の艦からの通信すら視認不可能にさせるので、全ての艦が後続艦のために通信を反復しなければならなかった。いずれの艦も実行前に通信内容を確認せねばならないので、これに要する時間はしばしば冗長なものとなった。
- 戦闘序列
- 戦闘に際しては、各縦陣の先頭艦が左あるいは右90度に回頭し、後続艦がそれに続いて逐次回頭し、もとの針路と直角にひとつの長い単縦陣を形成する。正しい方向に縦陣を形成するには、敵がどの方向から接近しているかを、自らが敵戦艦に視認される前に知っておく必要がある。両艦隊が互いに高速で接近している場合、上述の隊形変更が終わらないうちに戦闘距離内に入ってしまうからである。敵を発見してその接近方向を適時に報告すること、さらに可能ならば敵の偵察艦隊の同様の偵察行動を阻止するのは、巡洋戦艦及び巡洋艦からなる偵察艦隊の任務であった。
- 対勢
- 「T字戦法」、すなわち戦艦の隊列が敵艦隊の進路を横切るように運動し、敵が旗艦の前部砲塔しか砲撃できないのに対して、味方が最大限の砲を指向出来るようにするのが理想であったが、この古典的な作戦が取れるかどうかは運次第であり、たいていはおおむね平行進路を進む両艦隊が激しく砲火を交えることとなった。
[編集] ドイツの計画
1916年の時点でドイツ大洋艦隊には18隻の戦艦があったのに対し、イギリス海軍本国艦隊は33隻を有しており、この差は戦争が進むにつれさらに広がっていった。正面からの決戦では勝ち目が薄いため、ドイツの方針は各個撃滅にあった。北海に侵入してイギリス沿岸を砲撃し、イギリスの小艦隊を誘き出して、これを優勢な戦力や潜水艦で撃破するというものである。
シェアによるとドイツの方針は、ドイツ港湾の監視・封鎖に従事しているイギリス艦隊への襲撃、その他機雷戦や潜水艦攻撃によって敵兵力を漸減し、両軍の戦力が均衡したところで敵に不利な状況下で決戦を挑むというものであった。
1916年5月の計画は、たくさんのUボートをイギリス海軍基地周辺に配置し、ヒッパーの巡洋戦艦隊がサンダーランド沿岸を襲撃して、ビーティーの巡洋戦艦戦隊をおびき出そうとするものだった。うまくいけば潜水艦による漸減の後、イギリス艦隊はヒッパーによってシェアの指揮するドイツ主力艦隊の前に誘導され、撃破されるはずであった。
[編集] イギリスの対応
イギリス海軍は5月28日にドイツの通信を傍受・解読し、全艦艇に対して5月30日の出撃準備を命じた。さらに通信が傍受され、内容は解読できなかったが、敵に大規模な作戦計画があることは明らかであった。そのためジェリコーは、ヒッパーが5月30日にジェイド・エスチュアリーを出発するより早く、本国艦隊の24隻の弩級戦艦と3隻の巡洋戦艦を率いてスカパ・フローから出撃した。翌日、ビーティー率いる高速部隊、4隻の弩級戦艦と6隻の巡洋戦艦もフォース河口から出撃した。ジェリコーはユトランドの沖合のスカゲラク海峡の西90マイル(145km)でビーティーと合流し、ドイツ艦隊を迎撃する、あるいはその意図が判明するまで待機するつもりであった。
[編集] 艦隊
シェアが16隻の弩級戦艦、5隻の巡洋戦艦と6隻の旧式な前弩級戦艦を持つのに対して、ジェリコー配下の部隊は28隻の弩級戦艦と9隻の巡洋戦艦を保有していた。イギリス艦隊は軽艦艇においても同様に優位に立っていた。斉射重量においてもイギリス艦隊は332,400lb(151トン)と、ドイツの134,000lb(61トン)に対して、優位にあった。
このイギリス艦隊の優位性は特定の技術的な要因によって相殺された。一つにはイギリス艦隊の射撃指揮は劣っており、ドイツ艦隊の射撃はより正確であった。またドイツの艦艇は、魚雷に対するより厚い装甲と防水ドアを持っていた。ドイツの徹甲弾は、イギリスの砲弾より効果的であった。そして、きわめて重要なことはイギリスが使用していた装薬は過敏であったことと弾庫が十分に防御されていなかったことである。イギリス艦隊は艦艇間の通信の悪さにも苦しんだ。
[編集] 巡洋戦艦の交戦
[編集] 前哨戦
ドイツの潜水艦艦隊はまったく機能せず、イギリス艦を一隻も沈められなかったばかりか、偵察隊としてもなんら有益な情報をもたらさなかった。ジェリコーの艦隊は無傷でビーティーとの合流海面に達したが、本国海軍本部情報部のミスにより、実際より9時間遅い時刻にドイツ艦隊が到着すると思い込んでいた。
5月31日の14時20分、悪天候による視界不良にもかかわらず、ビーティー指揮下の偵察隊は「南東に敵艦あり」と報告した。また英独艦隊の中間を航行していたデンマークの汽船を臨検していたイギリスの軽艦艇も、同じく偵察を行なっているドイツの偵察部隊を発見した。ビーティーは、ドイツ艦隊の帰路を遮断するために東に移動した。そしてこの戦いの最初の発砲をイギリス第一軽巡洋艦隊のガラテアが行った。これは2隻のドイツ駆逐艦を巡洋艦と勘違いしたものである。ガラテアはその後、ボディッカー少将率いるドイツ第2偵察隊のエルビングから大遠距離の砲撃を受け、被弾した(ただし、不発弾だった)。
15時30分、ビーティーは南東に針路を取るヒッパーの巡洋戦艦部隊を発見した(地図の1)。ヒッパーは直ちに変針し、ビーティーをシェア率いる自軍主力の方向に誘導しようとした。ビーティーは敵を追うとともに、約5kmの距離にいたサー・ヒュー・エヴァン-トマスの第5戦艦戦隊にも追撃するよう信号旗を掲げた。
[編集] 南への逃走
しかし距離と視界不良のため、第5戦艦戦隊には信号旗が見えず、ビーティーも灯火信号や電信での伝達を怠ったため、第5戦艦戦隊は数分間もとの針路を保って時間を空費した。ドイツ艦隊を射程に捕らえてから10分以上を経過した15時45分、14kmの距離でほぼ平行となった体勢で、まずヒッパーが発砲、ビーティーもすぐに応戦した(地図の2)。こうして「南への逃走(Run to the South)」として知られる艦隊どうしの戦闘が始まった。
ビーティーは艦隊に一列になって交戦するよう命令し、ビーティーの旗艦ライオンはドイツ艦隊の旗艦リュッツォーと交戦するために旋回した。しかし、イギリス側のミスにより、モルトケが2隻の巡洋戦艦の攻撃の標的となっている間、デアフリンガーは交戦から外れたまま、妨害されることなく自由に砲撃できる位置にいた。先制したのはドイツ側だった。ヒッパー指揮下の5隻の巡洋戦艦は、すぐにイギリスの6隻の巡洋戦艦のうち3隻に命中を記録した。約10分後、イギリスは何とか最初の命中弾を送り込んだ。この戦いの最初の大きな損害は、リュッツォーの12インチ砲(305mm)一斉射撃によるもので、ビーティーの旗艦ライオンのQ砲塔が大破した。数十人の乗員が即死したが、その後の大きな被害は避けられた。致命傷を負った砲塔の指揮官フランシス・ハーヴェイ(Francis Harvey)海兵隊少佐は弾薬庫の扉を閉め、弾薬庫に注水するよう命じたのである。そのため、火薬に引火して大規模な爆発が起こることは防がれた。ライオンは生き残ったが、インディファティガブルはそう幸運ではなかった。16時、インディファティガブルの船尾にフォン・デア・タンの11インチ砲から発射された3発の砲弾が命中し、インディファティガブルは戦線を離脱した。フォン・デア・タンはさらに最大射程から11インチ砲の一斉射撃を行なった。砲弾は装甲を破壊し、ライオンを救った英雄的献身の暇もあらばこそ、インディファティガブルは弾倉の爆発によって轟沈し、1019人の乗組員のうち2人を除いたすべてが戦死した。(地図の3)
運はヒッパーに傾いていたが、そう長く経たないうちに彼は見放された。エヴァン-トマスは超弩級戦艦のクイーン・エリザベス級戦艦4隻からなる第5戦艦戦隊を率いて戦場に向かっていた。クイーン・エリザベス級は15インチ(381mm)砲を装備した快速の戦艦である。ヒッパーは長射程の15インチ砲の砲撃を浴び、自艦隊の小さい艦砲では有効な反撃ができず窮地に追い込まれたが、シェア率いる主力の大洋艦隊本隊が急速に接近しつつあることを知って、囮作戦が成功しつつあると考えた。
巡洋戦艦の戦闘はいよいよ激しさを増し、16時25分にクイーン・メリーはデアフリンガーとザイドリッツの斉射で命中弾を受け、弾薬庫が爆発して乗組員1,275名のうち、わずか9名の生存者を残して沈没した。インディファカブルとクイーン・メリーの轟沈を見たビーティーは「血塗れになった今日の我が艦隊は、何かがおかしいんじゃないか」(There seems to be something wrong with our bloody ships today)と旗艦ライオンの艦長に語っている。(地図の4)
16時30分頃、ビーティー指揮下のウィリアム・グットイナフ代将率いる第2軽巡洋艦戦隊の軽巡洋艦サザンプトンがシェアの大洋艦隊本隊を発見した。さらに、この部隊の戦力を詳細に報告するため多数の大口径砲から放たれる射撃を回避しながら接近し、弩級戦艦16隻と旧式戦艦6隻であることが判明した。同時に駆逐艦部隊も巡洋戦艦部隊に立ち向かい、サイドリッツに向けて魚雷を発射した。 ビンガム艦長指揮するイギリス駆逐艦ネスターはドイツの水雷艇V-27、V-29を撃沈したが、その後ネスターと駆逐艦ノマドはシェアの本隊が通過するときに命中弾を受け、放棄された。
ビーティーはジェリコーの本国艦隊に敵を引きつけるため北への回頭を決め、16.45(地図の5)付近で接触を中止した。ビーティーはジェリコーに北上するよう呼びかけたが、十分な意味をもった信号だったにもかかわらず、またも情報の伝達に失敗した。第5戦艦戦隊は巡洋戦艦戦隊に遅れていることに気づき、大洋艦隊に向かっていることがわかった。エヴァン-トマスが「一斉回頭」ではなく「逐次回頭」の命令を出したことから、状況はさらにひどくなった。同じ海域で4隻の船すべてが逐次回頭したため、ドイツの大洋艦隊が射撃距離を計るのに十分な時間を与えてしまった。彼らは一時、本国艦隊の掩護なしでドイツの偵察部隊と大洋艦隊本隊と渡り合わなければならなかった。その間、戦艦マレーヤは被害を受け続けたが、艦長が回頭の決断を速やかに下したので損害はいくぶん軽減された。さらにマレーヤの15インチ砲は敵に有効打を与え続け、ドイツの巡洋戦艦部隊は深刻な損傷を被った(地図の6)。
ジェリコーは全面的な接触が近いことに感づいていたが、ドイツ艦隊の位置と針路に関する情報が不十分であった。ジェリコーは戦闘に向けてアーバスノット少将の第1巡洋艦戦隊に陣形の前方を警戒させ、ホーレス・フッド少将の第3巡洋戦艦戦隊に速度を上げてビーティーを掩護するよう指示した。
17時30分頃に第1巡洋艦戦隊の装甲巡洋艦ブラック・プリンスは視界内にビーティー指揮下の第3軽巡洋艦戦隊を見つけ、ようやく本国艦隊との連絡に成功した。しかし、同時に第3巡洋戦艦戦隊と連絡中の軽巡洋艦チェスターがベディッカー少将指揮するドイツの偵察部隊に阻止された。軽巡洋艦4隻で構成される偵察部隊は数で勝っており、援護のために西転してきた第3巡洋戦艦戦隊がこれを排除する前にチェスターは大きな被害を負った。フッドの旗艦インヴィンシブルは軽巡洋艦ヴィースバーデンを航行不能にさせ、他のドイツ艦はフッドが北と東の方向からイギリス主力艦を誘導していると勘違いしたので、ヒッパーとシェアの艦隊がいる方向に逃走した。また、ドイツの魚雷艇はこの新しい戦力が戦闘へ参加するのを遅らせようとしたため、駆逐艦との戦闘が新たに起きた。
[編集] 艦隊の行動
同じ頃、ビーティーとエヴァン-トマスはヒッパーの巡洋戦艦隊との交戦を再開したが、視界状況はイギリス艦隊に有利だった。艦隊の戦闘力がかなり落ちたので、ヒッパーは18時頃にシェアの大洋艦隊本隊の方に向かって反転した。時を同じくして戦艦アイアン・デューク艦上のジェリコーはようやくビーティーの旗艦ライオンを視界に捉えた。ジェリコーは直ちにビーティに最新のドイツ艦隊の位置の情報を要求したが、ビーティーは返答するまでに10分近くもかかってしまった。
ジェリコーは敵の勢力を過大評価し、位置取りを憂慮していた。並列陣形から単縦陣に変更する時期と方法を判断するために正確なドイツ艦隊の位置を知る必要があったが、陣形変更は東西いずれの戦列からもできたものの、ドイツ艦隊が到着する前に行わなければならなかった。しかも、早すぎる陣形変更では決戦の機会を逃す恐れがあった。西に向かいながらの陣形変更は艦隊をシェアの本隊に近づけ、夕暮れが迫る中で貴重な時を稼ぐことが出来たが、陣形変更が完了する前にドイツ艦隊に遭遇する恐れがあった。東に向かいながらの変更ではイギリス艦隊をシェアの本隊から遠ざかってしまうが、ジェリコーの艦隊はドイツ艦隊に対してT字戦法で戦闘を挑める他、西日に浮かぶシェアの本隊のシルエットを見られるという利点があった。陣形変更には最短でも20分はかかり、一方で2つのドイツ艦隊は高速で接近中であった。ジェリコーは18時10分に東に向かっての陣形変更を命じた(地図の2)。
一方、ヒッパーの偵察部隊はシェアの本隊と再び合同し、ドイツ艦隊は北方で陣形変更を決意したジェリコーの本国艦隊に向かって進んだ。ドイツ艦隊にはジェリコーの本国艦隊が北西から接近しているという知らせが入らず、北方のビーティーと東方に出現したフッドの部隊に気を取られていた。ビーティー艦隊の健在な巡洋戦艦4隻は、巡洋戦艦3隻で構成するフッドの第3巡洋戦艦部隊と合流するため本国艦隊を横切ったが、この時アーバスノット少将の旗艦ディフェンスと衝突してしまった。ディフェンスは弩級戦艦同士の戦闘で役に立たない旧式の装甲巡洋艦であったが、航行不能に陥っていたヴィースバーデンを発見し、ディフェンスと同じく装甲巡洋艦のウォーリアの2隻はヴィースバーデンに止めを刺した。しかし、この2隻は迂闊にもシェアとヒッパーの艦隊の射程圏内に入り込んでしまった。たちまち砲撃を受けたディフェンスは、本国艦隊の大半からも視認できるほどの大爆発を起こし、全乗組員903名とともに沈没してしまった。
ウォーリアも命中弾を受けて深刻な損傷を被り、沈没の危機に晒されたが、近くの超弩級戦艦ウォースパイトの事故で敵の矛先が逸れ、難を逃れた。第5戦艦部隊に所属する戦艦ウォースパイトは、約25ノットの速度で北に向かうビーティーの巡洋戦艦部隊に追従している最中に舵が故障してしまった。ドイツ艦隊は無力化したウォーリアから、大きく円を描くような旋回しかできなくなり格好の標的となったウォースパイトに照準を変えた。このウォースパイトの行動は、ウィンディ・コーナー(Windy Corner)として知られる。ウォースパイトは命中弾13発を受けつつも耐えていたが、エヴァン-トマスは離脱と帰港を命じた。
ディフェンスが沈んだ頃、ヒッパーの偵察部隊はフッドの第3巡洋戦艦部隊の射程に入っていた。フッドの旗艦インヴィンシブルはヒッパーの旗艦リュッツォーの喫水線下に2発の命中弾を与え、最終的に戦列からの離脱に追い込んだ。しかし18時30分頃、今度はインヴィンシブルがリュッツォーとデアフリンガーの格好の標的となってしまい、12インチ砲弾が続けて命中、大爆発を起こして船体が二つに折れ、フッド少将を含め乗組員1032名のうち、わずか6人を除いた全員と共に沈没した。
18時30分までに両主力艦隊は初めて会敵し、ジェリコーはシェアの本隊をT字戦法で効果的に横切る形をとれた(地図の3)。ジェリコーの旗艦アイアン・デュークは、先頭をゆくドイツの弩級戦艦ケーニヒにたちまち数発の命中弾を与えた。しかし、この数分間の短い交戦では本国艦隊の24隻の戦艦の内わずか10隻程度が砲戦に加わったのみであった。ドイツ艦隊は視界不良と不利な戦術的位置に苦しんだ。罠にかかりつつあることを悟ったシェアは、18時33分に回頭して退却することを命じた。砲煙と霧にまぎれて退却は成功した。
ジェリコーは戦艦部隊を雷撃される危険を意識し、追跡ではなくドイツ艦隊を西に見る陣形を保つ南への変針を決心した。また、シェアは撤退するのに、まだ暗くないということを意識しており、艦尾から追撃されれて苦戦しないよう、18時55分に東へ反転した(地図の4)。シェアは回顧録に、"the manoeuvre would be bound to surprise the enemy, to upset his plans for the rest of the day, and if the blow fell heavily it would facilitate the breaking loose at night."と残している。
グットイナフ代将の第2軽巡洋艦部隊は接触を続けるため、ドイツ戦艦からの砲撃を回避しながら19時過ぎに大洋艦隊に再び接近した。19時15分にはジェリコーの艦隊も再びT字戦法で砲戦を開始できた。今度の砲撃はドイツ艦隊の戦艦を損傷させ、特にベーンケ少将の第3戦艦部隊に対して致命傷を与えた(地図の5)。19時17分、反転を命じてから1時間と経たないうちにシェアは西進を命じ、続いてヒッパーの指示で離脱したリュッツォーを除いて、巡洋戦艦4隻となった偵察部隊と残存する駆逐艦にイギリス艦隊の追撃を阻止するように命じた。その間に砲戦でドイツ艦隊はイギリス艦隊に2発の命中弾を与えたが、ドイツ側は37発もの命中弾を受け、このうちの14発が巡洋戦艦デアフリンガーに集中した。しかし20時24分から日が落ち始め、シェアは離脱に成功した。残存するイギリスの巡洋戦艦部隊がドイツ艦隊に追いつき、最後の砲戦が始まった。戦艦キング・ジョージ V世と戦艦ヴェストファーレンが数度の砲撃を交えたが、双方とも第一次世界大戦において弩級戦艦同士の戦闘がこれで終わるとは想像していなかっただろう。
21:00時、本国艦隊の夜戦での弱さを認識していたジェリコーは、払暁まで大規模な交戦を避けようと考えた。彼はシェアがエムズへ逃亡するのを防ぐために南進する間、後方を警備させるため主力艦隊の後方に巡洋艦と駆逐艦の列を置いた(図の7)。実際には、シェアは自身の航路を横切りホーンズ岩礁方面へ逃亡しようと企てていた。シェアにとっては幸運なことに、ジェリコーは慎重になりすぎて多くの状況証拠からドイツ艦隊がジェリコーの背後を取りつつあると判断してしまったため、ジェリコーの偵察艦はシェアの本当の進路を発見できなかった。
シェアの逃走とジェリコーの不活発がドイツの夜戦能力の全面的優位を物語っているとは言え、夜戦の結果は会戦全体ほど明瞭ではない。グッドイナフの旗艦サザンプトンは深刻な損傷を受けていたが、有効な偵察を行っており、ドイツの軽巡洋艦フラウエンロブを何とか撃沈した。フラウエンロブは22時23分に全乗組員320名とともに沈没した。しかし、6月1日2時、運の悪い第一巡洋艦戦隊のブラック・プリンスは戦艦チューリンゲンの砲撃で致命傷を受け、戦隊の旗艦ディフェンスの数時間前の運命を再現するかのように、全乗組員857名とともに轟沈する。2時10分、イギリス駆逐艦隊はドイツの戦隊に向けて魚雷を発射する。駆逐艦5隻の喪失といくらかの損傷と引き換えに、どうにか前弩級戦艦ポンメルンを全乗組員844名とともに沈め、軽巡洋艦ロストックに魚雷命中、さらに弩級戦艦ポーゼンに衝突されて放棄された軽巡洋艦エルビングに損傷を与えた。巡洋戦艦リュッツォーは生存者1150名が脱出したあと、1時45分に自沈した。
ジェリコーの過剰な慎重さに加えて、ドイツ軍はロンドンの海軍情報局の失策にも助けられた。海軍情報局は、大洋艦隊の正しい位置を知らせる無線傍受を転送したが、ジェリコーがシェアの居場所をつかんだのは4時15分のことであり、もはや戦闘を続けられないのは明らかだった。1916年には「栄えある6月1日」は来そうになかった。
[編集] 損失
イギリスの損失は、3隻の巡洋戦艦を含む、合計14隻、排水量にして115,000トンと兵員6,094名を失った。ドイツは合計11隻、62,000トン、2,551名を失った。他にもイギリスの巡洋戦艦ライオンやドイツの巡洋戦艦ザイドリッツが大破する被害を負った。戦闘終了後、イギリスには即時戦闘可能な弩級戦艦と巡洋戦艦が合わせて24隻残っていたのに対して、ドイツは10隻だけだった。
イギリス側にとって、戦術的には僅差の敗北であった。より多くの艦艇を失った上、ドイツ艦隊を撃破するという意図も達成できなかったが、ドイツ艦隊は港に後退し、イギリス艦隊は制海権を維持した。この点、イギリス側は戦場の支配を維持したのだから、戦術的にも敗北とは言えないとする人も多い。損傷した艦艇がドイツ側より早く修理されたこともドイツ海軍の戦果を一部打ち消している。
戦略的にも結果ははっきりしない。ドイツ艦隊は二度と出撃することはなかったが、有力な戦闘部隊としては残り、その現存艦隊として存在している以上、ドイツを完全に封鎖したとは言えなかった。事実、ドイツ艦隊は8月と10月にも出撃している(いずれも戦闘には至らなかった)。
また、イギリス艦隊の行動を検証すると、二つの大きな問題が浮かび上がる。
- イギリス側の徹甲弾はドイツ艦の装甲を貫通して内部で炸裂することなく、装甲の外側で炸裂してしまった。結果としてドイツ艦の中で8インチの装甲しか持たない何隻かさえ15インチ砲弾の直撃に耐えた。砲弾が設計通りに機能し、砲撃がもっと正確であれば、ドイツ側の損害はより大きかっただろう。
- また、各艦とイギリス艦隊司令長官との間の意思疎通はお粗末だった。戦闘のほとんどの期間、ジェリコーにはドイツ艦船の位置が分からなかった。ドイツ艦隊と戦闘中の艦船がいたにもかかわらずである。それらの艦船は艦隊の戦闘計画通りに敵艦隊の位置を報告するのを怠っていた。連絡が無線ではなく信号旗によってなされたケースもあったが、戦場の視界が霞や煙でさえぎられているなかでは疑問の多い行動である。
[編集] イギリス
- 巡洋戦艦:インディファティガブル、クイーン・メリー、インヴィンシブル
- 装甲巡洋艦:ブラック・プリンス、ウォーリアー、ディフェンス
- 嚮導駆逐艦:ティペラリー
- 駆逐艦:シャーク、スパローホーク、タービュレント, アーデント、フォーチューン、ノーマッド、ネスター
[編集] ドイツ
- 巡洋戦艦:リュッツォー
- 前弩級戦艦:ポンメルン
- 軽巡洋艦:フラウエンロブ, エルビング、ロストク、ヴィースバーデン
- 大型水雷艇(駆逐艦):V48, S35, V27, V4, V29
[編集] 海戦の評価
[編集] 巡洋戦艦の設計と運用
巡洋戦艦における設計の問題と運用の誤りは、イギリス海軍に重大な損害をもたらした主因である。この戦闘は、イギリス海軍が技術と作戦の両面でドイツ海軍に劣っていた証拠だとされることが多い。
ジェリコーは報告書へ以下のように書いた。
巡洋戦艦の交戦の問題点は、5隻のドイツ巡洋戦艦が同等のイギリス巡洋戦艦6隻と交戦し、しかも我が方は交戦開始から20分後には遠距離とは言えクイーン・エリザベス級戦艦4隻の砲火に支援されていたにも関わらず、なおクイーン・メリーとインデファティガブルを沈められた点にある・・・イギリス艦喪失の原因となった要因は、第一に、我が方の巡洋戦艦の不十分な装甲、特に砲塔の装甲と甲板の防御、第二に、照明について我が方の艦隊が受けた不利である・・・夜間におけるドイツの組織は非常に優れている。彼らの認識信号のシステムは優秀だが、我が方にはないも同然だ。また、彼らの探照灯は我が方より優れており、たいへん有効に活用されていた。最後に、彼らの夜間射撃の方法も優秀な結果を出している。認めたくはないが、夜戦についてはドイツ海軍から大いに学ぶべきだと言わざるを得ない。 |
2003年の夏にはダイバー隊が、イギリス艦に多かった艦内爆発の原因を調査するため、沈没した巡洋戦艦インヴィンシブル、巡洋戦艦クイーン・メリー、装甲巡洋艦ディフェンス、巡洋戦艦リュッツォーの残骸を調べた。この時の調査結果によると、艦内爆発の主な原因は主砲弾の推進剤であるコルダイトの雑な取り扱いにあったようだ。これは当時のイギリス海軍の方針で、敵に対して遅くて正確な射撃より、むしろ速射率を重視していたせいである。特に発射のスピードを重んじる訓練の際に、ホイストとハッチを通じてコルダイトを供給していたのでは間に合わない。次の斉射のための装填に間に合わせるため、誘爆に備えた防火扉の多くを開いたままの状態にして、コルダイトの袋を砲塔近くに置いていた。これでは安全のための設計がまったく無意味になるが、このような「悪い習慣」が実戦時にも行なわれてしまったのである。
さらにドイツ海軍の推進火薬であるRP C/12は真鍮製のシリンダーに収められていたのに対し、イギリス海軍のものは絹製の袋で供給されており、火炎に敏感で誘爆を招きやすかった。しかも1913年には、弾薬不足を恐れて、各艦の砲弾とコルダイトの積載量を50パーセント増やすと決定された。これが弾薬庫の収容力を超えた時には、コルダイトが危険な場所に保管されることになった。
巡洋戦艦ライオンの砲手だったアレキサンダー・グラントは回顧録の中で、一部の士官はコルダイトの雑な取り扱いの危険性に気づいていた、としている。
砲弾の火薬がコルダイトに代わったことで、爆発物取扱上の注意に関する規則が無意識のうちにかなり弛んだ。残念なことだが、海軍全体にわたって危険なまでに弛んでいた。艦上規則が次第に無視されるようになったのは、二つの理由があるように思える。ひとつは、コルダイトは従来の火薬よりも取り扱いがずっと安全な爆発物だったこと。もうひとつは、こちらのほうが重要なのだが、弾薬庫の構造が変わったことが偽りの安心感を与えていたことだ……鉄や鋼鉄のデッキ、木の上貼りの廃止、埋め込みの電灯、薬莢を運び出す竪穴がなくなったために開けっ放しの鋼鉄のドア、こうしたこと全てが、爆発物を扱う注意についてやや安易な態度を将兵に招いていた。 |
海戦の後、イギリス海軍本部はコルダイトの取り扱いについて批判的な報告書を作成した。しかしその時にはすでに、ビーティは本国艦隊の司令官になり、ジェリコーは第一海軍卿(日本で言う軍令部総長)になっていた。そのため、艦内爆発の責任の一部は参加した艦隊の士官たちにあるとする報告書は握りつぶされ、ほとんど一般の批判を受けることはなかった。
海戦はイギリス海軍の概念と巡洋戦艦の使用に欠点があったと見られた。巡洋戦艦はジョン・アーバスノット・フィッシャーの、「速度は装甲」という言葉通りに設計された。それは敵の戦艦より速く、優れた射撃管制を用いて敵の巡洋艦を射程外から圧倒して反撃する余地を与えないことを目的としていた。しかし、この海戦で射撃管制の使用を可能にする開発が行われず、フィッシャーの方式は成り立たなかった。また、敵の戦艦からの攻撃に耐える装甲も不足していた。
[編集] ジェリコーへの賛否両論
当時、ジェリコーは慎重に過ぎてシェアの逃走を許したと批判された。とりわけビーティーはジェリコーは第二のトラファルガー海戦に勝利してドイツ艦隊を撃滅する絶好の機会を逃したと確信していた。ジェリコーの昇進は止まり、第一線から外されて第一海軍卿に回され、一方ビーティーがその後を継ぎ本国艦隊司令長官に昇進した。
戦後も10年近くにわたって賛否両論が続いた。批判は主にジェリコーが19時15分に下した決定に集中した。シェアは戦艦部隊の退却を援護するために巡洋艦隊と駆逐艦隊に魚雷攻撃のため前進するように命令した。もしジェリコーが(事実と異なり)西に転じていれば、雷撃をかわしてドイツ艦隊を撃破出来たであろうか、という疑問が残る。ジェリコーの擁護者は、海戦史家Julian Corbettを含めて、すでに制海権を確立した後に敗北の危険を冒すことの愚かさに言及している。Corbettの公式戦争史である「海軍作戦」(Naval Operations) は次のような異例ともいえる否定的文章を含む、「いたずらに戦闘を欲すること、それを決定的なものにしようとすることは重要ではないということは海戦の戦術で重要な原則であるが、これに全く反するものの見方をする人が多いようだ (Their Lordships find that some of the principles advocated in the book, especially the tendency to minimise the importance of seeking battle and forcing it to a conclusion, are directly in conflict with their views.)」。
各自が海戦の結果をどのように評価しようとも、それに賭けられていたものは恐るべきものであり、ジェリコーにかかっていたプレッシャーはとてつもないものだった。彼の慎重さは充分理解できるものである。彼は恐らく勝利の確率が90パーセントであっても、英帝国の運命を賭けるには充分ではないと判断したのだろう。かつての海軍大臣チャーチルは海戦を評して「ジェリコーは半日で戦争を敗北に終わらせることの出来る唯一の人間だった」としている。ジェリコーへの批判は同時にシェアへの評価を落とすことにもなっている。シェアは決戦を避けることにより艦隊を保全することを決意したのであり、退却戦において優れた技量を発揮したのであった。
[編集] ビーティーの行動
イギリス艦隊が完全な勝利を逃したことについてビーティーの行動を批判する一派も存在する。ビーティーの勇敢さに疑問の余地は無かったが、ドイツ艦隊との交戦で彼がとった処置のため海戦は危うく敗北に終わるところであった。イギリス艦隊の損失の大半はビーティーの戦隊である。その日に失われた三隻の主力艦はいずれもビーティーの指揮下にあった。ビーティーはその巡洋戦艦をその設計目的にそぐわない戦闘に投入した。それらは対巡洋艦作戦に用いられるためのものであり、大きく強固に装甲された弩級戦艦との直接交戦のためのものではない。弩級戦艦との砲戦で巡洋戦艦は決定的に不利である。
加えて、ビーティーの戦闘行動が統制がとれていなかったこともしばしば批判される。ビーティーは明らかに海戦において緻密な指揮統制が重要とは考えていなかったようである。ビーティーは巡洋戦艦ライオンに座乗していたが、途中で他の4隻の巡洋戦艦との接触を失ってしまった。ビーティーの12インチ砲搭載の巡洋戦艦はドイツの11インチ砲搭載巡洋戦艦より射程が長かったにもかかわらず、ビーティーはドイツ艦隊の砲術が威力を発揮する距離まで距離を詰めてしまった。一方でビーティーの巡洋戦艦の砲術は訓練不足から今一つで、「南走」(The Run to the South)において重大な影響をもたらした。
訳注: ビーティの主力は13.5インチ砲搭載であった。またドイツ艦隊もリュッツォー、デアフリンガーは12インチ砲搭載だった。また射程距離は必ずしも口径によらず、ドイツ艦砲の短射程は仰角が小さいことが主因である。
この戦いの間、ビーティーは「血塗れになった今日の我が艦隊は、何かがおかしいんじゃないか」という有名な発言をしている。ビーティーが非難を他人になすりつけていること自体に賛否両論がある。巡洋戦艦の指揮がまずく、第5部隊をなおざりにし、戦闘の準備が不適当だったとは言え、攻撃精神が不十分だったという点で、ビーティーはジェリコーを非難する理由がある。一方で、この戦いの間ビーティーとアーバスノットは敵に突撃するという愚行を犯している。
[編集] 外部リンク
- Beatty's Official Report from The WWI Document Archive(英語)
- Jellicoe's Despatch from The WWI Document Archive(英語)
- THE GRAND FLEET from The War Times Journal(英語)
- GERMANY'S HIGH SEA FLEET IN THE WORLD WAR from The War Times Journal(英語)