フェリックス・クライン
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フェリックス・クリスティアン・クライン(Felix Christian Klein、1849年4月25日 - 1925年6月22日)は、ドイツの数学者。群論と幾何学との関係、関数論などの発展に寄与した。クラインの壺の考案者として知られる。ヒルベルトやポアンカレといった次の世代の数学者に影響を与えた。
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[編集] 略歴
- 1849年 - デュッセルドルフに生まれる。
- ボン大学で数学を学ぶ。
- 1872年 - エアランゲン大学(現エアランゲン・ニュルンベルク大学)教授に23歳という若さで就く。
- 1875年 - ミュンヘン工科大学教授に就く。哲学者ヘーゲルの孫アンネ・ヘーゲルと結婚。
- 1880年 - ライプツィヒ大学教授に就く。
- 1886年 - ゲッティンゲン大学教授に就く(-1913年)
クラインはプロイセン政府の首長秘書だった父の元に生まれた。この時代のヨーロッパは緊張が続いておりプロイセン王国がフランスと戦争になったときは衛生兵としてプロイセン軍に従事した。(このフランスとドイツの長年に亘る対立はクラインやヒルベルトと共に19世紀を代表するフランスの数学者アンリ・ポアンカレとの確執を生むことになる。)ここで後に文部大臣となるフリードリヒ・アルトホフと出会う。戦争の後の1872年、彼は23歳という異例の若さでエアランゲン大学の教授に就任することになった。この間に彼の大きな業績のひとつであるエアランゲン・プログラムを考案した。ライプツィヒ大学で教鞭をとっていた1881年初頭、フランスの科学アカデミーが1878年に提示した微分方程式に関するコンクールの問題についてポアンカレが発表した論文を呼んだことで彼と交流を始める。ポアンカレとの文通は最初は温和なものだったが次第に皮肉の混じったものになっていき最終的にはお互いの国にまで批判が及ぶようなものになり1882年にポアンカレが書いた手紙を最後に文通は途切れることになる。この2人の対立はお互いに相当大きな負担になったといわれる。最後の手紙の数ヵ月後クラインはうつ病にかかり休養を余儀なくされる。この後クラインは研究よりも教育に力を入れ始めダフィット・ヒルベルトやマックス・デーンなどの数学者を育てた。このときにもクラインのポアンカレへの反感は消えておらずヒルベルトをポアンカレの元に留学させたときもヒルベルトにポアンカレはたいした結果が無い場合でもとにかく論文を書きたがるが、パリでそういう批判は聞かないかと尋ねたりし、デーンがポアンカレが解けなかった予想(ポアンカレ予想のことである)を解いたと思い込んだときには先を越される前に早く発表しろと急かしたりしたという。
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[編集] 功績
彼の幾何学における最も重要な業績ともいわれるのがエアランゲン・プログラム(変換と不変量を基にした幾何学の特徴付け、クラインがエアランゲン大学の教授だった頃に作られたことに因む)である。彼は幾何学を図形(空間)にある変換を施したときに変わらない性質を研究する学問であるとした。(集合論の言葉を用いれば与えられた集合と変換群が与えられ、その変換に対して変化しない集合の性質を調べることと言い換えれる。)例えばユークリッド幾何学では回転、鏡映、平行移動の3つの変換(正確には単位元として全く動かさない変換である恒等変換がある。これらは合わせてユークリッド変換、剛体変換などと呼ばれ、それらのなす群をユークリッド群と呼ぶ)が許されており、不変量としては長さ、角度、面積などが挙げられる。また射影幾何学においては射影変換が許されているので角度や長さは不変量とはならないが直線はあくまでも直線であり複比も保存される。(クラインは射影変換群がユークリッド群より本質的に大きいことを示した。つまり射影幾何学とユークリッド幾何学は構造的に異なるということである。この成果は射影幾何学における最後の大発見ともいわれる。)位相幾何学(トポロジー)では連続変換(ホメオモルフィズム)が許されておりこのときは図形の連結性以外は保存されない。(トポロジーにおける不変量としてはオイラー標数やベッチ数、ホモトピー群などがあるが完全な分類に使えるものは発見されていない。これは有名なポアンカレ予想にもつながるものだが、前述のようにクラインはトポロジーの基礎を築き上げたポアンカレと対立していたためこの問題の解決にも相当な知恵を傾けたといわれる。)この特徴付けの最も大きな意味はいままで雑多に創り出されてきた数々の幾何学が分類しなおされたことである。(彼のプログラムに従わなかったものとしてリーマン幾何学がある。この幾何学では空間の普遍性を仮定していないため一般に可能な変換は恒等変換だけになってしまう。この不備はクラインの後に修正された。)この幾何学の分類という問題は彼の教え子であったヒルベルトの公理系による幾何学を含めた数学の諸分野の体系付けという新たな道にも影響を与えることになる。
クラインはガウスやリーマンの創始した多様体論にも大きな功績を残している。彼は微分幾何学の分野では多様体に持たせる幾何構造は剛体変換を可能にすることができる自然なものにすべきだとし(これは前述のエアランゲン・プログラムで扱うことができる「幾何学」である)2次元多様体は全て3種類の自然な幾何構造を持つと信じた。(クラインは正しさを確信していたが、結局証明はできなかった。これの完全な証明は1907年にポアンカレとケーベによってそれぞれ独立になされ一意化定理と呼ばれている。)これは幾何化予想(3次元で同じことを考えれないかという予想でポアンカレ予想の最終的解決に大きな意味を持った予想)などその後の幾何構造の研究に大きな影響を与えた。さらに位相幾何学の分野では向きつけ不可能な閉曲面を初めて発見した。この多様体はクラインの壺といわれている。(「クライン」にはドイツ語で「小さい」という意味があることからクラインの壺のことを「小さい壺」と書いた本がしばしば見受けられる。これはトポロジーでは大きさを考えないことに掛けたジョークである。)
[編集] 著書
- 幾何学の基礎、ヒルベルト、クライン、寺阪英孝・大西正男訳、共立出版〈現代数学の系譜;7〉、1970年 ISBN 4-320-01160-0
- クライン:19世紀の数学、石井省吾・渡辺弘訳、共立出版、1995年9月 ISBN 4-320-01493-6
- 正20面体と5次方程式(改訂新版)、関口次郎・前田博信訳、シュプリンガー・ジャパン、2005年10月 ISBN 4-431-71118-X
[編集] 関連項目
- エルランゲン・プログラム
- クライン群
- クラインの四元群
- クラインの壺