ドミティアヌス
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ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌス(Titus Flavius Domitianus, 51年10月24日 - 96年9月18日)はローマ帝国の第11代皇帝である。在位81年から96年。フラウィウス朝最後の皇帝であり、ウェスパシアヌスとその妻ドミティリアの次男、先代皇帝ティトゥスの弟にあたる。
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[編集] 治世
81年9月、兄ティトゥスが重病に伏すと、速やかに行動し、兄が生存中に帝位を掌握した。そのためドミティアヌスが兄の死期を早めたとの噂がたった。
最初は穏健に始まったその治世は次第に暴虐となり、その為に死後、記憶の抹消(Damnatio Memoriae)に処せられた。ユダヤ人やキリスト教徒を迫害したことでも知られる。
スエトニウスの『ローマ皇帝伝』には、教養のある優雅な青年として描かれる。兄と異なり、父のユダヤ遠征には参加していない。父が皇帝に登極すると、次第にその行動は大胆さを増した。
70年にドミティア・ロンギナとルキウス・アエリウス・ラミアを強制的に離婚させ、ドミティアと結婚した。ドミティアはネロ配下の将軍であったグナエウス・ドミティウス・コルブロの一人娘であった。この結婚は暴力的にはじまったものの、結果としては双方に利益をもたらした。しかしドミティアヌスは漁色家として知られ、たびたび愛人たちを引き連れていたという説もある。また若い頃にはネルウァ(次のローマ皇帝)らの元老議員連と男色関係にあったという説もある。
彼は皇太子として神官などの栄誉職をたびたび受けたが、帝国の行政官職にはつかなかった。政治に関わらなかったため、ドミティアヌスを次期皇帝候補と見たものはいなかったが、兄ティトゥスが死ぬと野心をあらわにして帝位についた。
治世の末期は暴虐をもって伝えられる。元老院議員や騎士階級のものをたびたび告発しては死刑にした。貴族階級に公然と敵意を示し、元老院の決議をしばしば無効にした。
[編集] 最期
96年に暗殺された。この暗殺はステファヌス(姪ユリア・ドミティアの執事)を含む元老院議員らや元側近によって計画された。占星術によっておのれの死を予告されていたドミティアヌスは心休まず、暗殺を警戒したが、自邸内で暗殺された。ステファヌスは8度ドミティアヌスを突き刺したと伝えられる。遺体は粗末な扱いを受けたが、乳母により火葬にされ、姪のものと混ぜ合わせられた。
後嗣なく、死後は元老院によってネルウァが皇帝に指名された。
[編集] 功績と汚点
皇帝としてのドミティアヌスの評価は極めて低い。それはドミティアヌスと敵対していた元老院階級の歴史家たち(タキトゥスやスエトニウス)が否定的な評価を下しているからである。またユダヤ人に対して敵対的な行動を取り、そのためにネロに続くキリスト教の第2の迫害者となったと記憶されており、それも低い評価につながっている。81年に即位してのち、帝国の経済を破綻させ、景気の後退を招き、通貨デナリウスを下落させた。財政回復のため、増税したが、これによってさらに人気の低下を招いた。
ただし彼は記録抹殺刑に処せられており、これにより後世にはタキトゥスやスエトニウスの否定的評価だけが残っているという事実も、考慮せねばならない。ハドリアヌス 帝も死後に危うくこの刑の執行を受ける所であり、そうなっていれば五賢帝のひとりとしての肯定的評価も後世に残らなかったであろう。
当時いまだネロ治世でのローマ大火と内乱のあとから完全に復興していなかったローマ市内に、芸術愛好家としてのおのれの好みを反映させ、人口の回復を図り、公共事業を多く起こした。ドミティアヌスの建築計画には競技場(現在のナボーナ広場)、宮殿、神殿、数多くの記念碑や彫像が含まれる。
85年には終身ケンソル(監察官。財務官とも)の座についた。この職はローマ市民の模範たるべき職であり、ドミティアヌスにはふさわしくないとの評があった。81年に帝妃ドミティアが俳優パリスと浮気したという噂を聞き、怒ったドミティアヌスはパリスを処刑し、帝妃を流刑にした。姪(兄ティトゥスの娘)であるユリア・フラウィアの夫の死後、未亡人となったユリアに、彼女が肉親であったにもかかわらず、これに恋慕し、妊娠させるに至った。ユリア・フラウィアが流産のため死亡した後、流刑地から帝妃ドミティアを呼び戻したが、その後の結婚生活は形ばかりのものであった。
ドミティアヌスは芸術と競技に情熱を注ぎ、父ウェスパシアヌスが建設を始め、兄ティトゥスが奉献したフラウィアヌム(フラウィウス競技場、現コロッセオ)を86年に完成させた。オリンピア競技を模し、ここで4年ごとに陸上競技や戦車競走などからなる競技大会を催した。また剣闘士競技を愛好し、女性剣闘士や矮人剣闘士といった改革を行った。
ローマ人としての教育を受けたものの、軍人としては才能に恵まれなかった。ダキア遠征やブリタニア遠征を試みるが、これらの遠征は国内宣伝を主としたものであり、実効を伴わなかった。ダキア人相手の戦争では度々苦戦を強いられ、最終的にはダキアと講和条約を結んでいる。この講和条約は当時ダキア側に捕らえられていたローマ兵一人に対していくらかの身代金を払うと言った条項が加えられており、これを屈辱的だと感じたローマ市民には大変不評な講和条約であった。
ライン川防衛線とドナウ川防衛線の間を繋げるゲルマニア防壁(リーメス・ゲルマニクス)の建設を始めた。これはゲルマン人にとって格好の避難場所であった黒い森シュヴァルツヴァルトをも防壁内に取り込むなど、ローマの防衛に大きく寄与することになった。
[編集] 参考文献
[編集] 外部リンク
- ドミティアヌスに関する文献案内 - ドイツ国立図書館 (DNB) のカタログ
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