グスタボ・クエルテン
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グスタボ・クエルテン |
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基本情報 |
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ラテン文字名 | Gustavo Kuerten |
愛称 | グーガ |
国籍 | ブラジル |
出身地 | 同・サンタカタリーナ州 フロリアノーポリス |
生年月日 | 1976年9月10日 |
身長 | 190cm |
体重 | 83kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 片手打ち |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1995年 |
ツアー通算 | 28勝 |
シングルス | 20勝 |
ダブルス | 8勝 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | 3回戦(2004) |
全仏 | 優勝(1997・2000・01) |
全英 | ベスト8(1999) |
全米 | ベスト8(1999・2001) |
優勝回数 | 3(全仏3) |
キャリア自己最高ランキング |
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シングルス | 1位 |
ダブルス | 38位 |
Template |
グスタボ・クエルテン(Gustavo Kuerten, 1976年9月10日 - )は、ブラジル・サンタカタリーナ州フロリアノーポリス出身の男子プロテニス選手。「グーガ」(Guga)という愛称で呼ばれる。1997年、2000年、2001年の3度、全仏オープン男子シングルスで優勝した。ATPツアーで全仏オープン3勝を含むシングルス20勝、ダブルス8勝を挙げた。身長190cm、体重83kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。
クエルテンは6歳の時から、両親と一緒にテニスを始めた。彼が9歳の時、父親がジュニアの試合の審判中に急死してしまう。1995年にプロ入りし、1996年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのブラジル代表選手に選ばれた。1996年9月の「ワールドグループ・プレーオフ」は、ブラジルのホームコートとしてサンパウロ市内で行われ、ブラジルはオーストリアと対戦した。クエルテンはシングルス第2試合に勝ち、先輩選手のジャイミ・オンシンスと組んでダブルス第3試合にも出場した。この時、地元ブラジルの観客の応援に気を悪くしたオーストリアのペアが、最終第5セットでクエルテンたちが 2-0 とリードしたところで(ゲームカウント:7-6, 4-6, 6-3, 3-6, 2-0)試合を放棄し、残るシングルス2試合も拒否する珍事が起こった。[1]
クエルテンが世界的に有名になったのは、1997年の全仏オープン優勝であった。当時20歳だったクエルテンは、世界ランキング66位のノーシード選手であったが、当時世界最新の打ち方と言われた腰の回転を最大限に生かしたフォアハンドや、正確で鋭いバックハンドのストレートを武器にして勝ち進んだ。3回戦では1995年全仏オープン優勝者のトーマス・ムスター、準々決勝で前年優勝者のエフゲニー・カフェルニコフを破り、決勝では1993年と1994年の優勝者セルジ・ブルゲラに 6-3, 6-4, 6-2 のストレートで圧勝し、過去3人の全仏優勝者を破って初優勝を決めた。大半のプロテニス選手が白を基調としたウェアを着用していた中で、クエルテンはブラジル人が愛用するカナリア色(黄色の一種)のテニスウェアをまとい、当時のテニス界に鮮烈な印象を与えた。本人はこれほど勝ち進むとは思わなかったため、手元のウェアが足りなくなり、急遽メーカーから調達したとの逸話が残っている。現地ブラジルでは、クエルテンの全仏初優勝の報道を聞いて“即席カーニバル”のような祝賀ムードになったという。ブラジル人のテニス選手としては1960年代にマリア・ブエノの活躍があったが、クエルテンは同国の男子選手として最初の4大大会シングルス優勝者になった。
それからしばらく好成績が出なかったが、2000年にキャリアの絶頂期を迎え、全仏オープンで3年ぶり2度目の優勝を果たす。この時は決勝戦でマグヌス・ノーマン(スウェーデン)に 6-2, 6-3, 2-6, 7-6 で競り勝った。この年は世界ランキング上位8名しか出場できない男子ツアー最終戦「テニス・マスターズ・カップ」(室内コートの大会)でも、決勝でアンドレ・アガシを破って初優勝を飾った。こうしてクエルテンはマラト・サフィンを僅差で抜き、当年度の年間最終ランキング1位に輝いた。
2001年の全仏オープン決勝ではアレックス・コレチャ(スペイン)を 6-7, 7-5, 6-2, 6-0 で破り、2年連続3度目の優勝を飾った。全仏3勝はイワン・レンドル、マッツ・ビランデルと並ぶ大会歴代3位タイ記録である。しかし、2001年末のテニス・マスターズ・カップでは予選のラウンド・ロビン(出場選手8名を2つのブロックに分け、各ブロック内の4名で総当たり戦をすること)で敗退したため、世界ランキング1位の座をレイトン・ヒューイットに奪われた。
1990年代半ばから、男子プロテニス界には芝生・クレー(赤土)などテニスコートのサーフェス(表面)ごとにスペシャリストが多く出るようになったが、クエルテンは全仏オープン3勝が物語るように、クレーコートで無類の強さを発揮してきた。他のサーフェスの4大大会では、ウィンブルドンでは1999年、全米オープンでは1999年と2001年の2度ベスト8進出がある。
クエルテンは長らく臀部の怪我に悩まされ、ツアー戦線から離脱していた。2007年11月7日には、生まれつき脳性麻痺を患っていた末の弟を亡くしている。そしてついに、彼は2008年限りでの現役引退を表明した。最後の大会に選んだ全仏オープンでは、シングルス1回戦で第18シードのポール=アンリ・マシューに 3-6, 2-6, 4-6 のストレートで敗退した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- グスタボ・クエルテン (英語) - ATPツアーのプロフィール
- デビスカップ成績表
男子テニス世界ランキング1位 | |
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