カート・シリング
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カート・シリング Curt Schilling ボストン・レッドソックス No.38 |
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基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | アラスカ州アンカレッジ |
生年月日 | 1966年11月14日(41歳) |
身長 体重 |
6' 5" =約195.6cm 235 lb =約106.6kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
初出場 | 1988年9月8日 レッドソックス戦 |
経歴 | |
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■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
カート・シリング(Curtis Montague (Curt) Schilling , 1966年11月14日 - )はアメリカ合衆国アラスカ州アンカレッジ出身の野球選手。フルネームはカーティス・モンタギュー・シリング。投手、右投右打。現在はMLBボストン・レッドソックスに所属している。
150km/h台の速球とスプリッターに加え、抜群のコントロールを武器に3度300奪三振を達成している。
現在まで3度、"穴馬" チームにおいてリーグ優勝した経験がある。1993年のフィラデルフィア・フィリーズ(前年のナ・リーグ東地区最下位)、2001年のアリゾナ・ダイヤモンドバックス(球団創設後最短年数での優勝)、2004年のボストン・レッドソックス(ポストシーズンのヤンキース戦で0勝3敗からの逆転劇)。またワールドシリーズを3度制覇している(2001年、2004年、2007年)。
目次 |
[編集] 経歴
アラスカ州アンカレッジ出身。シャドウ・マウンテン高校を卒業後、アリゾナ州プレスコットのヤバパイ短期大学に入学。1985年のJUCOワールドシリーズ制覇に貢献した。
[編集] 初期の活躍(1986年 - 2000年)
1986年、ボストン・レッドソックスからドラフト2巡目で指名され契約。1988年ボストンのマイナーからマイク・ボディカーとの交換トレードでブレイディ・アンダーソンと共にボルチモア・オリオールズへ移籍。同年9月7日にオリオールズでメジャーデビューしたが、ブロンドの髪に青いラインを入れたため保守的なフランク・ロビンソン監督を怒らせた、ということくらいでしか知られていない存在だった[1]。
ヒューストン・アストロズで投げた1991年シーズン終了後、シリングはロジャー・クレメンスから、「君は時間を無駄にしている」と2時間に及ぶ大説教を受けた。クレメンスから努力することの大切さを学んだシリングは、今までのやり方ではダメだと気づき、それまでとは「まったく違うアプローチ、視点、態度でゲームに臨む」ようになった[1]。翌1992年からフィリーズに移籍したシリングは、それから2000年までの8年以上、フィラデルフィア・フィリーズでエースとして活躍した。
1993年には16勝7敗・防御率4.02・186奪三振の成績を残し、フィリーズのペナント獲得に大きく貢献。ナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ(NLCS)ではディフェンディングチャンピオンのアトランタ・ブレーブスを相手に番狂わせを演じる立役者となった。自身に勝敗はつかなかったが、シリーズの6試合において防御率1.69・19奪三振の活躍でNLCSのMVPに選出された。ワールドシリーズでもディフェンディングチャンピオンのトロント・ブルージェイズと対戦。第1戦では負け投手となるものの、本拠地ベテランズ・スタジアムでの第5戦を被安打5で完封、チームも2-0の勝利を手にした。しかし第6戦では、ミッチ・ウィリアムズがジョー・カーターに3点本塁打を許し敗戦、ブルージェイズの2連覇でワールドシリーズは幕を閉じることとなった。ウィリアムズがマウンドにいる間シリングは、白いタオルで顔を覆う姿(これがさらにチームメイトの不安を煽った)をカメラに何度も撮られるなど、終始落ち着かない様子をしていた。
フィリーズはその後暗黒時代に突入。自身は1997年と1998年に2年連続で300奪三振を達成するなど回復を見せるも、次第に不甲斐ないフロントへの不満を口にするようになり、最終的にトレードを要求するに至った。
[編集] ダイヤモンドバックス時代(2000年 - 2003年)
2000年のシーズン途中にダイヤモンドバックスへトレード。アリゾナにおける2001年はレギュラーシーズン22勝6敗・防御率2.98、ポストシーズン4勝0敗・防御率1.12の大活躍だった。ダイヤモンドバックスがニューヨーク・ヤンキースを7試合で下しチーム初の栄冠を手にすることになる同年のワールドシリーズでは最優秀選手賞をランディ・ジョンソンと分け合い、二人はまたスポーツ・イラストレイテッド誌の2001年度 "スポーツマン・オブ・ザ・イヤー" にも選ばれた。2002年には23勝7敗・防御率3.23を記録。2001年・2002年ともにサイ・ヤング賞の投票においてジョンソンに次ぐ2位につけた。
2003年6月末、審判技術向上のため導入されていたクエステック・システムの監視カメラをバットで破壊したことがある。これは非難されるべき行為には違いないが、シリングの「あんなカメラに左右されるなんて、冗談じゃない! これまでストライクとコールされた球が、ボールとコールされる。しかもスタジアムにカメラがあるなしでコールも変わる。最悪のシステムだ」という主張は、同システムに不満を感じていた一部のメジャーリーグ関係者から強い支持を集めた[2]。
[編集] レッドソックス時代(2004年 - 現在)
2003年は故障のためシーズンを通じての活躍はできず、2003年12月ダイヤモンドバックスからボストン・レッドソックスへトレード移籍。2001年のワールドシリーズ以来のヤンキース・キラーの役をここでも務める。2004年4月NHLボストン・ブルーインズのプレイオフの試合では、 "ヤンキー・ヘイター" の帽子(刺繍のNYのNの部分がH、つまりYankee Haterになっている)を被っている姿を見せた。
2004年9月16日にシーズン20勝目をあげ、1978年のデニス・エカーズリー以来となるレッドソックス史上5人目の入団1年目での20勝を達成。その年は21勝6敗でシーズンを終えた。
同年ディビジョンシリーズ(対アナハイム・エンゼルス)第1戦において、右足首の腱を断裂する負傷を負う。そのままアメリカンリーグ・チャンピオンシップ(対ニューヨーク・ヤンキース)の第1戦で登板するも、痛みのため惨憺たる結果に終わる。球団医療スタッフは、痛めた足首の周囲の皮膚を縫いつけ、断裂した腱が動かないようにする応急処置を敢行する。当時の報道によれば、この応急処置はこれまで誰もやったことがなく、有効性を確かめるために医療解剖用の死体を使ってリハーサルを行ったという。シリングは同チャンピオンシップ第6戦に先発すると、今度は好投し勝利投手となったが、試合の終盤には応急処置の縫合部分から出血し、靴下が血に染まるまでになっていた。これ以後シリングは、先発前日に足の皮膚を縫い合わせ、登板が終わったら抜糸する、ということを繰り返していた(縫い付けたままでは患部が化膿する恐れがあるため)。
ALCS第6試合の勝利により、MLBポストシーズン史上初めて0勝3敗からタイに持ち越したレッドソックスは、翌日の試合でヤンキースを打ち破り1986年以来のワールドシリーズ出場を果たした。セントルイス・カージナルスを相手に迎えた同シリーズにおいては第2戦に先発するが、前述の傷めた右足首はまたしてもソックスを血で染める。しかしそれでも七回を投げきり失点1・被安打4に抑え、4つの三振を奪い、見事勝利を収める。その後レッドソックスはカージナルスに1勝もさせないまま4連勝で、1918年以来実に86年ぶりとなるワールドシリーズ優勝を達成した。この試合の血染めのソックスは、ワールドシリーズでボストンがセントルイス相手に4連勝したのち、野球殿堂館に展示されることになった。
2004年のサイ・ヤング賞では、ヨハン・サンタナ(ツインズ)に次いで再び2位に終わる。28の投票数のうち、サンタナはすべての1位票を、シリングは27の2位票を得票した。のちにレッドソックスはチーム全体でSI誌の2004年度スポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞し、シリングは同賞を二度獲得ないし共有した史上二人目の人物となった。
2005年の投球は足首の故障により多大な影響を受けた。故障者リスト入りの状態でシーズン開幕を迎え、その後復帰したときにも、それまでのカート・シリングと同じ投手だとは全く思えないほどであった。球速は下がり、制球力は落ち、スプリッターも以前の鋭さを失っていた。再び故障者リストに名を連ねた後は、7月にクローザーとして復帰。これにより力を取り戻し、また先発ローテーションに戻る事ができるのではないかと考えられていたが、この試みはほとんど失敗と呼んでよいものだった。数個のセーブは獲得したものの、投球への効果は無いに等しく、結局先発に戻って奮闘を続けることになり、9月のヤンキース戦では8回2失点と好投した。レッドソックスは同年プレイオフに進むが、シカゴ・ホワイトソックスに1勝も出来ず3連敗で敗退。第4試合の先発を予定していたために登板の機会を得ることは無かった。
2006年は健康的な状態でシーズンを迎え、傷めた足首もほとんど影を潜めたようであった。開幕後4勝0敗・防御率1.61という数字を残すと、引退が迫ってきたのではという声も退けた。その年は15勝7敗・奪三振198・防御率3.97の成績で終えた。
2006年はまた数々の記録を打ち立てた年でもあった。5月27日のタンパベイ・デビルレイズ戦では通算200勝を達成。メジャー19年目にして歴代104人目、現役(達成当時)では6人目となる偉業を成し遂げた。7月9日、USセルラー・フィールドにおけるシカゴ・ホワイトソックス戦で400回目の先発出場を達成。8月30日のオークランド・アスレチックス戦ではニック・スウィッシャーから通算3000個目の三振を奪い、与四球が1000を数える前に3000奪三振を達した史上3人目の投手となった(他の二人はファーガソン・ジェンキンスとグレッグ・マダックスである)。四死球が非常に少なく、制球力に長けていることの証拠と言える。
2007年1月にデニス・アンド・カラハンというラジオ番組の中で、家族との話し合いののちに考えを変えた結果、2007年度のシーズンの閉幕をもって自身の引退とする意思のないことを表明した。しかしシリングは現契約の延長を申し出るも、レッドソックス経営陣は年齢・体調などを理由にシーズンの終わりまで交渉を拒否した(伝えられたところによると、キャンプ入り時にシリングの体重はオーバー気味であったようである)。それに対しシリングは、今シーズンの終わりには自身初のフリー・エージェントとなるつもりであり、レッドソックスが独占交渉権を持つワールドシリーズ終了後の15日間に同チームとの交渉をするつもりはないとの発言を行った。
2007年6月7日のオークランド・アスレチックス戦では9回2アウトまで無安打に抑えるも、シャノン・スチュワートに95マイルの速球をライトへ打たれ、ノーヒットノーランをあと一人という所で逃した。その試合の後は2度の先発で結果を残せず、7月20日にボストンへ帰り肩にMRI検査を受け故障者リストに入った。8月6日に復帰した後は9試合に登板し、いずれも6イニング以上を投げた。
2008年3月13日、状態の思わしくなかった右肩のリハビリのため、60日間の故障者リスト入りした。シリングは手術を望んだが、チームはまずリハビリをすることを望んだ。復帰はオールスター明けとみられている[3]。
[編集] ポストシーズン
大舞台に強い投手であり、特にポストシーズンの15試合109回1/3で8勝2敗・防御率2.06・104奪三振という成績は目を見張るものがある。また最優秀選手賞を1993年のNLCSと2001年のワールドシリーズで受賞している(後者はランディ・ジョンソンとの合同受賞)。
[編集] 人となり
気迫溢れるプレーを信条とし、日本のマスコミからは敬愛をこめて「マウンドの鬼」と称されたこともある。しかし、それとは対照的に心優しい一面もある。特筆すべき事項としては、ここ10年以上筋萎縮性側索硬化症(ALS)の研究に積極的に支援しており、奪三振数に応じて毎年寄付を行っている。人気クイズ番組Jeopardy!(2006年11月9日放送)に出演した際は獲得した25,000ドルをチャリティへ寄付し、2004年のプレイオフでは、足首の手術を受けたあと(カメラが足によく向かうのを知りつつ)シューズに "K ALS" (Kは三振の意)と書いてプレーした。
2006年オフにレッドソックスに移籍が決まった岡島秀樹と松坂大輔のために日本語を少し学び始めた[4]。海外でのウィンターリーグの経験から、周りで全くわからない言葉を喋られる事がいかに気持ちの良くないものかをわかっているため、少しでもそれを軽くするようにチームメートが努力をしてやるのが最高の解決方法だと語っている。
[編集] ゲーム
コンピューターゲーム好きとして知られ、「オタク(nerd)」を自認している[5]。特に戦術級ウォーゲームアドバンスト・スコードリーダー(Advanced Squard Leader / ASL)の根強いファンである。
例年開催されるASLオクトーバーフェストに参加が出来なかった時には、その無念さから、自らの資金でASLオープンを創設した。その第1回は1993年1月15日にテキサス州ヒューストンで催された。また同ゲームのための「Fire for Effect」というアマチュア隔月雑誌も刊行していた。
発売元のアバロンヒル(Avalon Hill)が倒産してハスブロ社に買収された際には、ASL部門を買い取り、MMP(Multi-Man Publishing)社を設立し、ゲームの再販や新シナリオの販売などを手がけている。また新雑誌、「ASL Journal」を創刊し、記事やゲームシナリオを提供している。
エバークエスト、エバークエスト2の大ファンとしても広く知られている。エバークエスト2の開発者がシリングに特別のキャラクターを作成し、2006年6月5日から7日までの3日間、ファンはそのバーチャルのカート・シリングと対戦する事ができた。このバーチャル・シリングが倒されるごとにソニーオンラインエンタテインメント社から5ドルがALS研究に寄付されたが、これもシリングの思いつきからである。その他、PCゲーマー誌上で2つの拡張パックのレビューをしたこともある。
2006年ゲーム会社グリーンモンスターゲームズを創設した(のちに自身の背番号から38スタジオと改名)。
[編集] 獲得タイトル・表彰など
- ワールドシリーズMVP 1回:2001年(ランディ・ジョンソンと合同受賞)
- 最多勝利 2回:2001年(22勝)、2004年(21勝)
- 最多奪三振 2回:1997年(319奪三振)、1998年(300奪三振)
- MLBオールスターゲーム選出 5回:1997年 - 1999年、2001年、2002年
- ロベルト・クレメンテ賞 1回:2001年
- ハッチ賞 1回:2001年
[編集] 年度別投球成績
年度 | 球団 | 勝利 | 敗戦 | 試合 | 先発 | 完投 | 完封 | 完了 | セーブ | ホールド | 投球回 | 被安打 | 失点 | 自責点 | 被本塁打 | 四球 | 奪三振 | 死球 | 暴投 | 打者 | 防御率 | WHIP |
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1988 | BAL | 0 | 3 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 14.2 | 22 | 19 | 16 | 3 | 10 | 4 | 1 | 2 | 76 | 9.82 | 2.182 |
1989 | BAL | 0 | 1 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 8.2 | 10 | 6 | 6 | 2 | 3 | 6 | 0 | 1 | 38 | 6.23 | 1.500 |
1990 | BAL | 1 | 2 | 35 | 0 | 0 | 0 | 16 | 3 | -- | 46.0 | 38 | 13 | 13 | 1 | 19 | 32 | 0 | 0 | 191 | 2.54 | 1.239 |
1991 | HOU | 3 | 5 | 56 | 0 | 0 | 0 | 34 | 8 | -- | 75.2 | 79 | 35 | 32 | 2 | 39 | 71 | 0 | 4 | 336 | 3.81 | 1.559 |
1992 | PHI | 14 | 11 | 42 | 26 | 10 | 4 | 10 | 2 | -- | 226.1 | 165 | 67 | 59 | 11 | 59 | 147 | 1 | 4 | 895 | 2.35 | 0.990 |
1993 | PHI | 16 | 7 | 34 | 34 | 7 | 2 | 0 | 0 | -- | 235.1 | 234 | 114 | 105 | 23 | 57 | 186 | 4 | 9 | 982 | 4.02 | 1.237 |
1994 | PHI | 2 | 8 | 13 | 13 | 1 | 0 | 0 | 0 | -- | 82.1 | 87 | 42 | 41 | 10 | 28 | 58 | 3 | 3 | 360 | 4.48 | 1.397 |
1995 | PHI | 7 | 5 | 17 | 17 | 1 | 0 | 0 | 0 | -- | 116.0 | 96 | 52 | 46 | 12 | 26 | 114 | 3 | 0 | 473 | 3.57 | 1.052 |
1996 | PHI | 9 | 10 | 26 | 26 | 8 | 2 | 0 | 0 | -- | 183.1 | 149 | 69 | 65 | 16 | 50 | 182 | 3 | 5 | 732 | 3.19 | 1.085 |
1997 | PHI | 17 | 11 | 35 | 35 | 7 | 2 | 0 | 0 | -- | 254.1 | 208 | 96 | 84 | 25 | 58 | 319 | 5 | 5 | 1009 | 2.97 | 1.046 |
1998 | PHI | 15 | 14 | 35 | 35 | 15 | 2 | 0 | 0 | -- | 268.2 | 236 | 101 | 97 | 23 | 61 | 300 | 6 | 12 | 1089 | 3.25 | 1.105 |
1999 | PHI | 15 | 6 | 24 | 24 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 180.1 | 159 | 74 | 71 | 25 | 44 | 152 | 5 | 4 | 735 | 3.54 | 1.126 |
2000 | PHI/ARI | 11 | 12 | 29 | 29 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 210.1 | 204 | 90 | 89 | 27 | 45 | 168 | 1 | 4 | 862 | 3.81 | 1.184 |
2001 | ARI | 22 | 6 | 35 | 35 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 256.2 | 237 | 86 | 85 | 37 | 39 | 293 | 1 | 4 | 1021 | 2.98 | 1.075 |
2002 | ARI | 23 | 7 | 36 | 35 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 259.1 | 218 | 95 | 93 | 29 | 33 | 316 | 3 | 6 | 1017 | 3.23 | 0.968 |
2003 | ARI | 8 | 9 | 24 | 24 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 168.0 | 144 | 58 | 55 | 17 | 32 | 194 | 3 | 4 | 673 | 2.95 | 1.048 |
2004 | BOS | 21 | 6 | 32 | 32 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 226.2 | 206 | 84 | 82 | 23 | 35 | 203 | 5 | 3 | 910 | 3.26 | 1.063 |
2005 | BOS | 8 | 8 | 32 | 11 | 0 | 0 | 21 | 9 | 0 | 93.1 | 121 | 59 | 59 | 12 | 22 | 87 | 3 | 1 | 418 | 5.69 | 1.532 |
2006 | BOS | 15 | 7 | 31 | 31 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 204.0 | 220 | 90 | 90 | 28 | 28 | 183 | 3 | 1 | 834 | 3.97 | 1.216 |
2007 | BOS | 9 | 8 | 24 | 24 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 151.0 | 165 | 68 | 65 | 21 | 23 | 101 | 2 | 0 | 633 | 3.87 | 1.245 |
通算 | 20年 | 216 | 146 | 569 | 436 | 83 | 20 | 81 | 22 | -- | 3261.0 | 2998 | 1318 | 1253 | 347 | 711 | 3116 | 52 | 72 | 13285 | 3.46 | 1.137 |
※数字は2007年までのもの。太字はリーグ1位。
[編集] 参考資料
- ^ a b Tyler Kepner / New York Times 「カート・シリング&ジョシュ・ベケットの師弟関係 "悪ガキ" から "エース" へ」 吉藤宗弘訳、『月刊スラッガー』99号、日本スポーツ企画出版社、2006年、雑誌15509-7、10-13頁。
- ^ 木本大志 「『ICHIRO REPORT 3年目の真実』 VOL.7 Ques Tec System メジャーが導入を急ぐ判定監視システムとは?」 『スポーツナビ』、2003年。
- ^ "Red Sox's Schilling, out until All-Star break, goes on 60-day DL (英語)" 2008-03-13. 2008-03-13閲覧.
- ^ http://www.boston.com/sports/baseball/redsox/articles/2006/12/10/francona_awaiting_more_gifts/
- ^ [[1]]
[編集] 外部リンク
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投手 | 53 デビッド・アーズマ / 19 ジョシュ・ベケット / 61 クレイ・バックホルツ / 40 バートロ・コローン / 17 マニー・デルカーメン / 43 デバーン・ハンサック / 56 クレイグ・ハンセン / -- リンカーン・ホルズコム / -- エリック・ハル / 31 ジョン・レスター / 48 ハビアー・ロペス / 63 ジャスティン・マスターソン / 18 松坂大輔 / 37 岡島秀樹 / 58 ジョナサン・パペルボン / 62 デビッド・ポーリー / 38 カート・シリング / 59 クリス・スミス / 50 マイク・ティムリン / 49 ティム・ウェイクフィールド |
捕手 | 80 ダスティ・ブラウン / 36 ケビン・キャッシュ / 72 ジョージ・コッタラス / 33 ジェイソン・バリテック |
内野手 | 22 ショーン・ケイシー / 13 アレックス・コーラ / 76 アルヘニス・ディアス / 25 マイク・ローウェル / 12 ジェド・ロウリー / 23 フリオ・ルーゴ / 15 ダスティン・ペドロイア / 20 ケビン・ユーキリス |
外野手 | 55 ジェフ・ベイリー / 54 クリス・カーター / 10 ココ・クリスプ / 7 J.D.ドリュー / 46 ジャコビー・エルズベリー / 44 ブランドン・モス / 24 マニー・ラミレス / 30 ジョナサン・バン・エブリ |
指名打者 | 34 デビッド・オルティーズ |
監督・コーチ | 47 テリー・フランコーナ(監督) / 2 ブラッド・ミルズ(ベンチコーチ) / 16 ルイス・アリセア(一塁コーチ) / 35 デマーロ・ヘイル(三塁コーチ) / 52 ジョン・ファレル(投手コーチ) / 29 デイブ・マガダン(打撃コーチ) / 57 ゲイリー・タック(ブルペンコーチ) |
公式サイト(英語)より 40人ロースター 監督・コーチ一覧 2008年6月6日更新 |
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4 クレイグ・カウンセル / 5 トニー・ウォマック / 9 マット・ウィリアムズ / 12 スティーブ・フィンリー / 13 ミードレイ・カミングス / 16 レジー・サンダース / 17 マーク・グレース / 20 ルイス・ゴンザレス / 22 グレッグ・スウィンデル / 25 デビッド・デルーチ / 26 ダミアン・ミラー / 28 グレッグ・コルブラン / 29 ダニー・バティスタ / 32 アルビー・ロペス / 33 ジェイ・ベル / 34 ブライアン・アンダーソン / 36 マイク・モーガン / 38 カート・シリング / 40 ボビー・ウィット / 43 ミゲル・バティスタ / 44 エルビエル・デュラーゾ / 48 ロッド・バラーハス / 49 金炳賢 / 51 ランディ・ジョンソン / 54 トロイ・ブロホーン 監督 ボブ・ブレンリー |
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3 ポーキー・リース / 7 トロット・ニクソン / 11 ビル・ミラー / 12 マーク・ベルホーン / 13 ダグ・ミントケイビッチ / 15 ケビン・ミラー / 18 ジョニー・デイモン / 19 ゲーブ・キャプラー / 24 マニー・ラミレス / 28 ダグ・ミラベリ / 29 キース・フォーク / 31 デイブ・ロバーツ / 32 デレク・ロウ / 33 ジェイソン・バリテック / 34 デビッド・オルティーズ / 38 カート・シリング / 43 アラン・エンブリー / 44 オーランド・カブレラ / 45 ペドロ・マルティネス / 49 ティム・ウェイクフィールド / 50 マイク・ティムリン / 61 ブロンソン・アローヨ 監督 テリー・フランコーナ |
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7 J.D.ドリュー / 10 ココ・クリスプ / 12 エリック・ヒンスキー / 13 アレックス・コーラ / 15 ダスティン・ペドロイア / 17 マニー・デルカーメン / 18 松坂大輔 / 19 ジョシュ・ベケット / 20 ケビン・ユーキリス / 23 フリオ・ルーゴ / 24 マニー・ラミレス / 25 マイク・ローウェル / 28 ダグ・ミラベリ / 31 ジョン・レスター / 32 ボビー・キールティ / 33 ジェイソン・バリテック / 34 デビッド・オルティーズ / 37 岡島秀樹 / 38 カート・シリング / 39 カイル・スナイダー / 46 ジャコビー・エルズベリー / 48 ハビアー・ロペス / 50 マイク・ティムリン / 58 ジョナサン・パペルボン / 83 エリック・ガニエ 監督 テリー・フランコーナ |
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ノーラン・ライアン | ロジャー・クレメンス | ランディ・ジョンソン | スティーブ・カールトン | バート・ブライレブン | トム・シーバー | ドン・サットン | ゲイロード・ペリー | ウォルター・ジョンソン | フィル・ニークロ | グレッグ・マダックス | ファーガソン・ジェンキンス | ボブ・ギブソン | カート・シリング | ペドロ・マルティネス | ジョン・スモルツ |