金炳賢
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キム・ビョンヒョン | |
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各種表記 | |
ハングル: | 김병현 |
漢字: | 金炳賢 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
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片仮名: (現地語読み仮名) |
キム・ビョンヒョン |
ラテン文字転写: | Kim Byeong-hyeon |
本人表記: | Kim, Byung-hyun |
金炳賢 Byung-hyun Kim フリーエージェント |
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金炳賢(マーリンズ時代) |
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基本情報 | |
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国籍 | 大韓民国 |
出身地 | 光州広域市 |
生年月日 | 1979年1月19日(29歳) |
身長 体重 |
179cm 78kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1998年 アマチュアFAでダイヤモンドバックスと契約 |
初出場 | 1999年5月29日 |
経歴 | |
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■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
金 炳賢(キム・ビョンヒョン、 1979年1月19日-)は大韓民国出身のアメリカ・メジャーリーグの投手。右下手投げ。フリスビーと呼ばれる斜め上へ伸び上がるスライダーを投げる。
目次 |
[編集] 投球スタイル
コリアンサブマリンと呼ばれるアンダースローから投球するにも関わらず、150km/hを超えるファストボールを持ち、その一方で切れのいいスライダーを武器としていた。しかし、ボストン時代に怪我をしてからは速球が140km前半となり、成績は下降線を描いている。死球、ワイルドピッチが多く、そこから崩れることが多い。2007年には投球回数は一般的なローテーション投手の半分程度であったにも関わらず、ナ・リーグの最多与死球投手となった。
[編集] 略歴
[編集] ダイヤモンドバックス時代 1999 - 2002
1999年にアリゾナ・ダイヤモンドバックスでメジャーデビュー。2001年に78試合に登板し19セーブ(23セーブ機会)でアリゾナのワールドシリーズ優勝に貢献、2002年には72試合に登板、8勝3敗36セーブ(42セーブ機会)、防御率2.04とリリーフ投手としてオールスターにも選出されるなど、安定した成績をおさめた。
しかし、ニューヨーク・ヤンキースを相手にした2001年のワールドシリーズでは第4戦、第5戦と連続して9回2死まで好投しながら2試合連続で最終打者に本塁打を浴びて救援に失敗するという失態を演じた。第6戦以降はキムがプルペンに向かっただけでヤンキースファンから"We want KIM!"という声援をかけられ、登板を乞われるほどだった[1]。なお、このワールドシリーズは第7戦までもつれる大接戦となった。そしてアリゾナ州で行われた最終戦の最終回、2-1でアリゾナが負けていたシチュエーションでアリゾナはキムを登板させずに前日先発して勝利を挙げたランディ・ジョンソンをマウンドに送り込んだ。その裏、アリゾナは見事に逆転。ランディ・ジョンソンはそのキャリアを通じてはじめてのワールドシリーズ優勝を遂げただけではなく、優勝投手とワールドシリーズMVP(カート・シリングと同時受賞)となった。
キムは内気な性格であるとされ、英語も試合中監督やキャッチャーとの意思疎通に必要なくらいで済ませるため、普段チームメートやメディアとのコミュニケーションに乏しく、おまけにまるで「(チームの勝敗にかかわらず)自分の仕事をしっかりしていたら、それでいい」というような態度と、決定的な瞬間に本塁打を打たれても悔しさの表れとは程遠い苦笑いで済ます仕草がよく見られるため、他人には「チームの勝敗には興味がないのに、プライドは非常に高く、高慢な性格の持ち主じゃないか」と認識され、基本的には嫌われている[2]。
負けず嫌いで知られてるカート・シリングがキムのこのような性格を嫌って、チームメートとして一緒にワールドシリーズで戦ったにも関わらず2人の仲はまるで犬猿の仲という噂もある[要出典]。
2002年5月11日、フィラデルフィア・フィリーズ戦で、メジャー史上32人目、ナ・リーグでは23人目となる1イニング3者連続3球三振を達成している。
[編集] レッドソックス、ロッキーズ時代 2003 - 2006
[編集] 2003年
2003年のシーズン当初に先発に転向するが4月だけで1勝5敗と結果を残せず、ボストン・レッドソックスにトレードされる。ボストンでも当初は先発として登板していたが、6月以降はクローザーに復帰する。その年の10月、ディビジョンシリーズの第1戦で9回の裏、4対3のリードした状況でクローザーとして登板したが、不安定な投球で四球と死球で2死1,2塁の危機を作って降板。後続のピッチャーがタイムリーを打たれ、試合は延長にもつれ込んだ。結局チームは延長12回でサヨナラ負けを喫し、取れた試合を逃した一因として取り上げられた。短期決戦での手痛い1敗だっただけに、ホームで開かれた第3戦における試合前の選手紹介で、本拠地の熱烈なボストンファンからブーイングで迎えられた。その際、ファンに対して中指を突き立て、侮辱行為として強い非難を受けた[3]。
さらにそのシーズンオフの韓国滞在時、よく通うスポーツクラブの前で韓国のスポーツ紙の記者が潜伏しており、取材および写真撮影拒否の意思を記者に伝えたにもかかわらず、ネタ欲しさにその記者が無理やり写真を撮ったことがあった。そこで、そのカメラを取り上げる途中、もめごとになってしまい、軽傷を負った記者が暴力行為で金を告訴した事件が発生した。これについては、韓国ではむしろ記者として守るべき事を無視したその記者と彼の擁護に徹底した所属新聞社の非常識を非難する声の方が大きかった[要出典]。この一連の事件で一時は他チームへの移籍も噂されたものの2年1,000万ドルの契約を結んでレッドソックスにとどまった。
[編集] 2004年
2004年のシーズンは怪我の影響などで長くマイナーリーグで調整、メジャーではわずか7試合の登板に終わった。
[編集] 2005年
2005年、ボストンが年俸の大半を負担する条件でコロラド・ロッキーズにトレード。ボストンGMのセオ・エプスタインはトレードに際して「あの契約は間違いだった。今回はその責任をとったということだ」というコメントを残した。ロッキーズでは敗戦処理を中心とした中継ぎ、あるいはローテーションの谷間を埋めていたが、シーズン後半にはローテーションに定着した。ただし、チーム自体の不振も手伝って5勝12敗防御率4.86と成績は振るわなかった。
[編集] 2006年
2006年、ワールド・ベースボール・クラシック第1回大会に出場。準決勝の日本戦で3番手として登板、福留孝介に先制2点本塁打を浴びた。さらに、小笠原道大への死球とワイルドピッチでピンチに陥ると、里崎智也にエンタイトルツーベースを浴びて降板。韓国敗退のきっかけを作ってしまった。
この数年の実績に比べ、500万ドルと高価な年俸であったために契約はもめにもめた。キム側は年俸調停申請などもしたものの、けっきょくは75%という大幅ダウンの125万ドル+翌年のオプションでロッキーズと契約。レギュラーシーズンでは前年と同様に先発の一角に座り、シーズンを通じて27試合を投げ、8勝12敗防御率5.57と凡庸な成績に終わった。なお、この年の5月28日には、既に通算本塁打数でベーブ・ルースの持つ歴代2位の記録に並んでいたバリー・ボンズ(サンフランシスコ・ジャイアンツ)に対し、単独2位となる通算715号2ラン本塁打を許し、またもやここ一番で本塁打を献上してしまう投手という不名誉な印象を強めてしまう結果となった。
[編集] 1年に3度の移籍 2007 -
[編集] 2007年
2007年はコロラドがオプションを行使して250万ドルで単年契約。シーズンに入ってからチームでの起用方針をめぐる不満で首脳陣と対立、ロッキーズを去りたいという意思を漏らした。フロントもそのままではチームの役に立たないと判断して、故障を機に故障者リストにあげてアクティブロースターから外した。回復後は3Aの試合に登板し、投球に問題ないことを示したがコロラドはキムをメジャーに上げることはなく、トレード先も見つからないという状況が続いていた。250万ドルという年俸がネックになっていたためである。そこでキムはスコット・ボラスと代理人契約を交わし、彼の力を借りることにした。ようやく5月14日にホルへ・フリオ投手との交換トレードでフロリダ・マーリンズに移籍することに成功する。
フロリダでは先発ローテーションの一角を担っていた。しかし、年俸総額がメジャー全体の下から2番目と財務状況が裕福とはいえないフロリダにとって、年俸総額の8%強に相当するキムの高額な年俸は明白に負担となっていた。トレードを模索するも7月末のトレード期日までに話はまとまらず、戦力外通告を受けてウェーバー公示にかけられ、8月4日には古巣であるアリゾナ・ダイヤモンドバックスへの復帰が発表された。しかし、アリゾナでの2回の先発はどちらも3回ももたずにKOされ、わずか12日後に再度戦力外通告を受けた。金がマイナー契約を拒否し、ウェーバー公示にかけられたが獲得する球団はなく解雇された。ただし、公示期間終了後にフロリダが再度獲得した。これは公示期間終了後であれば残りシーズン分の最低年俸(約8万ドル)を負担するだけで済むためである。
2007年の通算成績は10勝8敗と二桁勝利(先発では8勝7敗)となったが、防御率は6.08と二桁勝利した投手の中では下から2番目という凡庸以下の成績に終わった。
[編集] 2008年
2007年シーズン終了後はフリーエージェントとなり、移籍先を探していたが年俸と成績が釣り合わずに難航。スプリングトレーニング開始後となる2008年2月24日、ピッツバーグ・パイレーツと85万ドルで1年のノンギャランティ契約を結んだ。しかし、スプリングトレーニング中に結果を残せず、開幕前の3月26日に違約金30万ドルで解雇された。
なお、サンディエゴでUMI Sushiという寿司店を共同経営している。
[編集] タイトル・表彰・記録
- MLBオールスターゲーム選出:1回、2002年
[編集] 年度別成績
年度 | チーム | 勝利 | 敗戦 | 防御率 | 試合 | 先発 | セーブ | イニング | 被安打 | 失点 | 自責点 | 被本塁打 | 四球 | 奪三振 |
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1999 | ARI | 1 | 2 | 4.61 | 25 | 0 | 1 | 27.1 | 20 | 15 | 14 | 2 | 20 | 31 |
2000 | ARI | 6 | 6 | 4.46 | 61 | 1 | 14 | 70.2 | 52 | 39 | 35 | 9 | 46 | 111 |
2001 | ARI | 5 | 6 | 2.94 | 78 | 0 | 19 | 98.0 | 58 | 32 | 32 | 10 | 44 | 113 |
2002 | ARI | 8 | 3 | 2.04 | 72 | 0 | 36 | 84.0 | 64 | 20 | 19 | 5 | 26 | 92 |
2003 | ARI / BOS | 9 | 10 | 3.31 | 56 | 12 | 16 | 122.1 | 104 | 55 | 45 | 12 | 33 | 102 |
2004 | BOS | 2 | 1 | 6.23 | 7 | 3 | 0 | 17.1 | 17 | 15 | 12 | 1 | 7 | 6 |
2005 | COL | 5 | 12 | 4.86 | 40 | 22 | 0 | 148.0 | 156 | 82 | 80 | 17 | 71 | 115 |
2006 | COL | 8 | 12 | 5.57 | 27 | 27 | 0 | 155.0 | 179 | 103 | 96 | 18 | 61 | 129 |
2007 | COL / FLA ARI / FLA |
10 | 8 | 6.08 | 28 | 22 | 0 | 118.3 | 131 | 90 | 80 | 20 | 68 | 107 |
Total | 9年 | 54 | 60 | 4.42 | 394 | 87 | 86 | 841.0 | 781 | 451 | 413 | 94 | 376 | 806 |
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
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4 クレイグ・カウンセル / 5 トニー・ウォマック / 9 マット・ウィリアムズ / 12 スティーブ・フィンリー / 13 ミードレイ・カミングス / 16 レジー・サンダース / 17 マーク・グレース / 20 ルイス・ゴンザレス / 22 グレッグ・スウィンデル / 25 デビッド・デルーチ / 26 ダミアン・ミラー / 28 グレッグ・コルブラン / 29 ダニー・バティスタ / 32 アルビー・ロペス / 33 ジェイ・ベル / 34 ブライアン・アンダーソン / 36 マイク・モーガン / 38 カート・シリング / 40 ボビー・ウィット / 43 ミゲル・バティスタ / 44 エルビエル・デュラーゾ / 48 ロッド・バラーハス / 49 金炳賢 / 51 ランディ・ジョンソン / 54 トロイ・ブロホーン 監督 ボブ・ブレンリー |