アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート(Francis Albert Augustus Charles Emmanuel, Prince of Saxe-Coburg-Gotha 、1819年8月26日 - 1861年12月14日)はイギリスのヴィクトリア女王の夫であり、従弟。ザクセン=コーブルク=ゴータ公子でザクセンの公(Herzog zu Sachsen)。イギリス女王の夫で、議会から唯一公式に「王配殿下」(プリンス・コンソート His Royal Highness the Prince consort)の称号を保持した人物である。父はザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツ・フリードリヒの長男で後のザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世。母はザクセン=ゴータ=アルテンブルク公アウグストの娘でエルンストの従妹のルイーゼ。
目次 |
[編集] ヴィクトリアとの結婚
ヴィクトリアとアルバートの結婚を積極的に推進したのは、双方の叔父に当たるベルギー初代国王レオポルド1世であった。1836年5月、アルバートは家族とともにロンドンを訪問し、ケンジントン宮殿でケント公の娘である王女ヴィクトリアと対面した。しかし当時の国王でヴィクトリアの伯父であるウィリアム4世はこの組み合わせには賛成せず、ヴィクトリアの相手にオランダ王ウィレム2世の息子であるオラニエ=ナッサウ家のウィレム・アレクサンダー王子を考えていた。一方、ヴィクトリアはレオポルド1世の計画を知っていたが、自身はアルバートとの結婚を望んでいた。ヴィクトリアは、金髪に青い瞳をしたハンサムなアルバートに一目ぼれをしたのである。ヴィクトリアがレオポルド1世に宛てた、アルバートを紹介してくれた礼を述べている書簡が残っている。
1837年のヴィクトリアの即位後、アルバートは兄エルンスト(2世)とともに1839年、再びロンドンを訪問した。この訪問の目的は二人の結婚にあった。10月に2人は正式に婚約し、1840年2月10日、セント・ジェームズ宮殿の王家礼拝堂(Chapel Royal)で結婚式を挙げた。
当時イギリス国民は、ドイツ系の女王に、イギリス人の血を濃くするためイギリス人の夫を望んでいた(ハノーヴァー朝の国王は全て、王族もほとんどがドイツ人の妃を娶っており、ヴィクトリアの母・ケント公妃ヴィクトリアも父方の祖母シャーロットもドイツ人であった。 これは 当時のイギリス王室であったドイツ系のハノーヴァー家(後の サクス=コバーグ=ゴータ家でも)では貴賎結婚が許されていなかったからある。また イギリス王族は 現在でも 法律でカトリック教徒との結婚を許されてないので その結果, イギリスの王族の結婚相手はイギリスの法律で "プロテスタント"で またハノーヴァー家ので家訓で "王家または公家の殿下" の称を有する人に限られていた)。そのため歓迎はされていなかったようである。出産と育児に追われる女王に代わり公式行事などもこなし、実質上は君主の役割であったが、イギリスでの社会的地位は結婚17年後プリンス・コンソートの地位が正式に与えられるまで何一つ持っていなかった。
[編集] アルバート夫妻の家庭
アルバートとヴィクトリアの夫婦仲は非常に良く、
- ヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズ(ドイツ皇帝フリードリヒ3世皇后)
- アルバート・エドワード(王太子、後のエドワード7世)
- アリス・モード・メアリ(ヘッセン大公ルートヴィヒ4世妃)
- アルフレッド・アーネスト・アルバート(エディンバラ公、後にザクセン=コーブルク=ゴータ公を継承)
- ヘレナ・オーガスタ・ヴィクトリア(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子夫人)
- ルイーズ・キャロライン・アルバータ(アーガイル公爵夫人)
- アーサー・ウィリアム・パトリック(コノート公)
- レオポルド・ジョージ・ダンカン・アルバート(オールバニ公)
- ベアトリス・メアリ・ヴィクトリア・フィオドア(バッテンベルク公ハインリヒ・モーリッツ妃)
と、多くの子供達に恵まれた。
アルバートの父エルンスト1世は根っからの女好きで、母のルイーゼを裏切り続けていた。そしてルイーゼ自身も傭兵隊長のアレクサンダーと浮気をするようになり、エルンストから離婚を言い渡され、子供のエルンスト2世とアルバートに会う事も禁じられた。そしてその後ルイーゼはアレクサンダーと再婚した。この不幸な家庭環境のため、アルバートは大変に誠実な夫になった。
しかし、長女のヴィクトリアがアルバートによく似て、申し分のない優等生だったのに比べ、アルバート・エドワード(後のエドワード7世)は大変な問題児であったため、いつもこの息子には彼は頭を悩ませていた。ただ、彼がこんな風になってしまったのはアルバートの厳しいしつけも関係していたようである。このため、エドワードは自分の子供達には、自分が父にされたのと同じような厳しいしつけをしようとはしなかった。
[編集] 王室の改革
1841年にアルバートは、ヴィクトリアの教育係でヴィクトリアが母親同然に思っていたレーツェンの仕事ぶりに問題点を感じたため、彼女の解任を考えるようになった。レーツェンは当時ヴィクトリアの秘書も務めており、王室の予算も諸々の人事権も彼女が握っていた。最初ヴィクトリアはレーツェンの解任に猛反対をするが、アルバートに説得され、ついにレーツェンの解任に同意した。アルバートはようやく実権を握ったが、イギリス王室は大変な無秩序状態になっていた。その理由はレーツェンが他人の言いなりで、また年をとるにつれて全体への配慮が行き届かなくなっていたからだった。
当時のイギリス王室では、個々が目先の利益ばかりを考え、好き勝手なふるまいをしていた。例えばウィンザー城では、内側と外側の窓をそれぞれ別の部署が管理する、という事が平気で行なわれていた。さらに二つの部署は激しい縄張り争いを展開し、互いに相手の管轄へと踏み込んでいた。また、王族の人々が全員外出中の時でさえ、城ではたっぷりと食事を用意するのが習わしで、結局豪華な食事は召使達の胃袋に消える事となった。さらに、ろうそくが使われていようがいまいが、全ての部屋のろうそくは毎日かかさず交換された。そして、18世紀後半、気前のいいジョージ3世が、赤の間と呼ばれる部屋に衛兵室を設け、当直中の衛兵にフランス産の赤ワインを毎日一本ずつふるまった、という事に端を発した「赤の間のワイン代」というものがあったが、ジョージ3世もこの世を去って既に久しく、衛兵室の存在もとうに人々から忘れ去られていたが、それでもワインだけは相変わらず大量に消費されていた。
アルバートは、このような数々の無駄使いや、召使達の無秩序ぶりを見て、いかにもドイツ人らしい徹底した方法で、王室全体を改革する事にした。彼は職員の大半を入れ替え、王室の部署を大幅に削減した。そのため、改革前から勤めていた者も新しく入った者も、真剣に働かざるを得なくなった。当然、アルバートに彼らの憎悪や反発が向けられた。特に彼らの最大の不満は、職員が副業にしていた格好の収入源を、アルバートが潰してしまった事だった。彼らの多くは、王室の情報を新聞社に流していい収入を得ていた。しかし、アルバートが王室でのできごとを掲載した公報を毎日発行するようになったため、これも不可能になった。また用具類に関しても、帳簿を付けさせてしっかり管理させた。
アルバートによるこうした数々の改革によって王室内部の混乱が一掃されたおかげで、王室費は全体として二万五千ポンドもの節減になった。アルバートには優れた財政の才能があった。彼はこの他にもコーンウォール公領とランカスター公領からの収入を、わずか一年の間に大幅に増加させている。しかし数々の成功にも関わらず、アルバートは「けちな男」や「金に細かい男」などと悪口を言われるようになってしまう。増えた分の収入は、田舎に別邸を建てるなど、アルバートによって有効に使われた。やがて彼はワイト島に広大な土地を購入し、オズボーン・ハウスを建て、毎年家族と過ごすようになった。
[編集] 政治への関与
アルバートは、1841年に長男のエドワードが生まれた前後から、枢密院のメンバーに加わり、ヴィクトリアの秘書や顧問を務めた。かつてメルボルン首相は、早くからアルバートの非凡な才能を見抜き、ヴィクトリアに対し「アルバート公は実に頭の切れるお方です。どうかアルバート公のおっしゃる事をよくお聞きなさいますように」と進言したという。1834年に首相になったロバート・ピール卿も、頭脳明晰なアルバートに接近し、微妙な問題が起きるとまず彼に意見を求めるようになった。ヴィクトリアには気まぐれで短気な所があったため、後回しにしたのだった。
アルバートは1851年にはロンドン万国博覧会を大成功させた。この万博の最大の呼び物は「クリスタル・パレス(水晶宮)」と名付けられた、鉄とガラスでできた宮殿だった。彼はこの万博開催においては中心になって準備を進めており、最大の出資者も彼だった。七百万人がこの万博を訪れ、収益は経費の倍以上にのぼった。新聞各紙もこの万博の成果を絶賛し、アルバートがイギリス国民の人気を集めたのは、後にも先にもこの時だけだったという。
[編集] 晩年
1861年の11月のある日、アルバートにとって、衝撃的な事件が起きた。外国の大衆紙に、エドワードと女優のネリー・クリフデンとの交際が掲載されたのである。2人の仲を言いふらしたのも彼女だった。アルバートは病身にも関わらず、エドワードの住むイギリスのケンブリッジへと向かった。2人の間で何が話し合われたのかは明らかではない。
アルバートは1861年12月14日、結婚21年、42歳で腸チフスで亡くなった。しかし、持病の胃痛などの症状とアルバートの母親も30歳で癌に倒れていた事を見れば、胃癌であった可能性が高い。
[編集] 称号と敬称
- 1819年8月26日 - 1826年11月12日:(平静平安なる公家の)殿下 ザクセン=コーブルク=ザールフェルトのプリンス・アルバート(His Ducal Serene Highness Prince Albert of Saxe-Coburg-Saalfield)
- 1826年11月12日 - 1840年2月6日:(平静平安なる公家の)殿下 ザクセン=コーブルク=ゴータのプリンス・アルバート(His Ducal Serene Highness Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha)
- 1840年2月6日 - 1861年12月14日:(王家の)殿下 ザクセン=コーブルク=ゴータのプリンス・アルバート(His Royal Highness Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha)
- 1857年 6月629日 - 1861年 12月14日:王配(王家の)殿下
王配の称号は1840年2月から非公式に使用されていた。
[編集] 関連項目
- プリンス・アルバート - ボディピアスのピアッシングする名称の一つ。