Wヤング
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Wヤング(だぶるやんぐ)は、吉本興業所属の漫才コンビ。現在のWヤングは2代目であり、「第2次Wヤング」とも呼ばれる。
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[編集] メンバー
- 現在はボケ(一部場面ではツッコミ)担当だが、第1次時代はボケ・ツッコミ両方を担当していた。兵庫県神戸市出身。血液型はA型。
- 元々歌手志望であり、弟子入り前は3年間歌手修業をしていた。1973年には念願の歌手デビューも果たす。耐久カラオケのギネス記録を持つ(現在も保持している)。
- 第1次Wヤングでは「平川 幸雄」の芸名で活動していた。読みは現在の芸名と同じ。
- 長男は演歌歌手の秋岡秀治(本名:平川幸仁)。
- ツッコミ(一部場面ではボケ)担当、兵庫県尼崎市出身。血液型はB型。
- 妻は吉本新喜劇の浅香あき恵。
- 新喜劇では何かのきっかけで突然理不尽に暴れ出すギャグを得意としていた。現在も不定期であるが吉本新喜劇に出演する事がある。
- 漫才の師匠は相方の平川幸男。
[編集] 元メンバー
- 愛称は「軍ちゃん」。ボケ・ツッコミ両方を担当していた。奈良県大和高田市出身。奈良県立高田高等学校卒業。声質が上岡龍太郎に似ていた。
- 楽屋ではやっていた野球賭博に手を出した事と事業の失敗で多額の借金を抱え、1979年10月25日、熱海の海岸で飛び降り自殺。享年41。亡くなった事は多くの芸人に衝撃が走った。告別式の時に平川は棺の前で号泣した。博打と事業で儲けようとしていた様だが結局は自分の意志が弱く、借金で追い詰められ最後は自決しての最後を選んでしまった。現在でも賛否両論の声がある。
- 尚、同じ中田姓の中田ダイマル・ラケット(本名・芸名共に中田姓)と師弟関係及び兄弟親子関係と思う人もいた様だが、実際は師弟関係及び直接のつながりはない。
- 「天国のスタア2006」や「なつかしの昭和爆笑漫才~天国の笑星~」では本名でテロップが出されていた。
[編集] 来歴
中田は住友銀行に勤務。東映ニューフェイス入りし1961年に西川ヒノデ(「西川ヒノデショウ」という4人組のコミックショウのリーダー。メンバーの中に二代目西川サクラ=後のフラワーショウの華ぼたんがいた。ちなみに西川きよしとは直接の関係はない)の弟子3人で漫才トリオ「リズムデッサン」を結成。1964年にトリオは解散し、メンバーのうち、西川ヒデ若は平川幸雄、西川ヒデオは中田治雄にそれぞれ芸名を改め、「初代Wヤング」を結成。しばらくして千土地興行から吉本興業に移籍。
当初はリズムデッサンと同様の音曲漫才だったが、後にしゃべくり漫才に転向。県名や動物、酒やタバコの銘柄などを折り込んだ洒落をふんだんに使った漫才で、1960年代の演芸ブームの波に乗り人気を得る。「やすしきよしが最も恐れた漫才師」と言われ、またビートたけしが著書で「ツービートが何年やっても追い抜くどころか追い付く事さえ出来ない」とその実力を認めるなど、後の漫才ブームの中心となった漫才師達の多くも彼らを目標としていた。
人気絶頂の最中、1979年10月25日に中田が飛び降り自殺して第1次Wヤングは解消。漫才ブームが到来する僅か3ヶ月前のことであった。平川は入院中に悲報を聞き、後を追おうとしたらしい。澤田隆治プロデューサーは「花王名人劇場」に最初に呼ぶ漫才はWヤングを予定していたが中田が自殺したためやすしきよしに変更した、と講演で語っている。そのやすしきよしはこの番組をきっかけにポストWヤングの座を射止め、漫才ブームを牽引することになる。
その後、平川はピン芸人として「ポケットミュージカルス」の歌手や吉本新喜劇などに活動の場を移すが、劇中で佐藤武志と漫才コンビ役をしていたことを機に、1984年4月、佐藤を誘って第2次Wヤングを結成する。このとき平川は芸名を「幸雄」から「幸男」に改名。第2次では舞台上を走り回ったり、どついたり、キスしたり、といった体当たりの漫才を披露。新コンビ結成当初は前座扱いされる屈辱も味わったが、結成20年を越えた現在はなんばグランド花月や寄席を中心に中堅~重鎮格のコンビとして活動している。テレビ、ラジオと言ったメディアへの露出は関西ローカルを除いてはあまり見られず、全国ネット番組へはラジオの「上方演芸会」を除けばまれに「笑点」にゲスト出演する程度である。
[編集] 芸風
- 第1次Wヤング
- 主に駄洒落を使った漫才が多かった。通常の漫才も得意とする。初期はギターを使って漫才を披露することもあった。
例(野菜ネタ)>「人のことなんかかぼちゃられませんわ」「なんでもごぼうごぼう上がりますよね」「いい加減に椎茸」「アスパラどうしたらいいの」「ではこのへんでえんどう豆」など。 - コンビ双方のボケとツッコミが瞬時に入れ替わる、難しいスタイルの漫才をこなし、ビートたけしが自身の著書で「ツービートがいくらがんばっても追い付くことさえ出来ない漫才師」と絶賛した。
- 第2次Wヤング
- どつき漫才のように身体をはったネタや、平川の歌唱力を使った歌ネタが多い。駄洒落ネタも時折披露する。その他、SE(効果音)漫才など、ジャンルは幅広い。どつき漫才の例として、佐藤が平川にキスを迫るネタが存在する。
- 場合によってはボケとツッコミが入れ替わるような場所があるが、基本的には前述の通り佐藤がツッコミ、平川がボケを担当している。
[編集] 主なギャグ
- 「ちょっと聞いたあ」
- 「えらいすんまへん」
- 「へんなの」
- 「アホかいな」
[編集] 出演
[編集] 漫才作品
- 漫才の殿堂(第1次Wヤング/DVD)
- なつかしの昭和爆笑漫才~天国の笑星~(第1次Wヤング/DVD)
- 上方漫才まつり <昭和編> 第1集(DVD)
[編集] 音楽作品
- Wヤング名義
- 楽屋人生
- 坂町ブルース
- 帰れぬ女のブルース
- 北端の宿
- 妹
- 人生花舞台
- 平川幸男名義
- ああ青森
- まとい精神
- 人情横丁法善寺
[編集] 受賞歴
- 第1次Wヤングとして
[編集] 主な弟子
- 平川タロー・ジロー(解散/現在はタローのみ活動)
- Wパンチ(解散/現在はみつおのみ活動)
- ミモ・ファルス(解散/小畑と米原が平川の弟子、岡田のみ大平サブローの弟子)
- 宇都宮まき
- 松みのる(現在は裏方として活動)
[編集] 備考・エピソード
- リズムデッサン時代より楽器を使った漫談を行っていたため、第1次時代はどちらも楽器を弾くことが出来た。そのため、テレビで歌を披露する際には平川がギターを中田がサックスを演奏し、更に中田が平川を肩車をしながら演奏する「2階建て演奏」を披露することがあった。
- 同時期に活動していたWけんじ、及び彼らの弟子で「W**」と名乗っていた人物たちや、「Wさくらんぼ」(松竹芸能所属で既に解散)とは一切の関係はない。但し、「Wパンチ」(吉本所属。現在パンチみつおだけ)は第1次Wヤングの一門である。
- 中田の自殺をきっかけに大阪府警では野球賭博事件の摘発に踏み切り、月亭可朝・間寛平・結城哲也(元チャンバラトリオ)の3人が略式起訴された。吉本でも賭博に手を染める芸人は使わないと宣言した。
- 月亭可朝が中田ボタンらとトランプ賄賂に興じていたところ、突然入ってきた警官がそのまま隣の部屋へと突入。偶然その部屋に居合わせた池乃めだか、4代目日佐丸、平川が賄賂に関わっていると疑われ拘束された。なお、実際はうどんの代金を用意していただけである。
- 平川は1979年に相方の中田を自殺で失い、2004年には同じく自殺で弟子の平川ジローを失っている。
- 第2次Wヤング(平川・佐藤のコンビ)は2004年4月の時点でで結成20周年を迎えており、第1次Wヤング(平川・中田のコンビ)の芸歴18年を上回ったことになる。
- 平川が一度だけ舞台に遅刻した際に、佐藤は宮川花子と組んで即興で漫才を行ったことがある。遅刻の原因は「時間を潰そうとして船に乗ったら、船がそのまま動き出した」ためである。
- 近年はオレンジと一緒に仕事をすることが多い。