高木正次
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高木 正次(たかぎ まさつぐ、永禄6年(1563年) - 寛永7年11月30日(1631年1月2日))は、戦国時代、安土桃山時代の武将。江戸時代の大名で河内丹南藩の初代藩主。
高木清秀の三男。母は水野元氏の娘。正室は大久保忠佐の養女。子に高木正成(長男)、娘(永井直清正室)。幼名は善次郎。官位は従五位下、主水正。
永禄6年(1563年)、尾張緒川にて生まれる。天正10年(1582年)より徳川氏に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣して武功を挙げた。朝鮮出兵にも参陣している。文禄3年(1594年)、家督を継いで5000石を領する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは信濃上田城の真田昌幸と戦い、その功績により慶長7年(1602年)に2000石を加増された。
慶長12年に大番頭に任じられる。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では江戸城の守備を努め、翌年の大坂夏の陣では大坂に出陣して戦功を挙げた。これにより元和3年(1617年)、近江にて2000石を加増された。元和9年(1623年)には大坂定番となって1000石を加増され、領地も河内丹南に移されて、合計1万石の大名として諸侯に列し、丹南藩主となった。寛永7年(1630年)11月晦日、68歳で死去し、後を長男の正成が継いだ。法号:智光院。墓所:大阪府松原市丹南町の来迎寺。
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