高山良策
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高山 良策(たかやま りょうさく、1917年 - 1982年)は山梨県出身の画家、怪獣の着ぐるみ製作者。初期のウルトラシリーズでの、成田亨デザインによる怪獣造形は、特撮史上に残る傑作として現在に至るまで高く評価され続けており、「怪獣の父」と呼ばれる。
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[編集] 略歴
後に日本画家になる兄の影響で、幼少期から絵に親しみ、画家を志す。だが、家が貧しかったため、14才の時単身上京。製本工場に勤務しながら、独学で絵を学ぶ。画集を買う余裕もなかったため、丸善などの書店に行き、画集を立ち読みして様々な絵を見たという。
1938年に陸軍に入隊し、中国戦線に渡るが、戦場にも画材を持参し、多くの絵を描いた。
退役して帰国後、田辺製薬に就職。また、貧困だがエネルギーあふれる画家たちが集まっていた「池袋モンパルナス」にあった福沢一郎の絵画研究所で学ぶ。福沢は当時、シュール・リアリズム絵画を描いており、その影響をうける。
太平洋戦争がはじまると、モンパルナスでの知人の紹介で、1943年東宝に入社。国策映画の特撮用のミニチュアを製作する。多くの美術家が集まっており、山下菊二、難波田龍起らを知る。
戦後の、1945年「池袋モンパルナス」のアトリエつき住宅に転居。1946年には、山下菊二、大塚睦らと「前衛美術会」を結成。同年には結婚もする。妻はのちの怪獣着ぐるみ製作の際には、原材料購入を手伝うなど、高山の仕事上でもパートナー的存在となった。
東宝では、スタッフ・俳優のほとんどが参加した一大労働闘争「東宝争議」が始まるが、それを嫌って退社。争議中には、同僚のうしおそうじ、山下菊二、山本常一らと街頭で似顔絵描きもやった。
以後は、フリーの立場で、特撮・造形関係の様々な仕事をする。1953には、日教組プロが製作した映画「ひろしま」のセットデザインをてがける。また、1959年には、飯沢匡の人形アニメーション「ポロン・ギター」の人形を製作した。また、練馬区に転居し、引越しが5月だったことからそのアトリエを「アトリエ・メイ」と名づける。このアトリエ名は、のちに「怪獣制作工房」名として有名になった。
また、1966年公開の大映映画『大魔神』では、主役の大魔神の4.5mの巨大な像(中に人間が入って操作した)を製作。その土着的で存在感あふれる造形で、映画の大ヒットに貢献した。
1965年には、彫刻家成田亨の紹介で、円谷プロ製作の『ウルトラQ』の怪獣・宇宙人の着ぐるみの製作に参加。クレジットはされなかったが、成田の秀逸なデザインもあり、現在でも、強烈な印象を与える造形となる。
続いて、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』にも参加し、番組にも「怪獣造形」としてクレジットされ、「毎週の怪獣造形」という過酷なスケジュールの中、独特の存在感のあふれる怪獣を作り続ける。なお、厳しいスケジュールから、『ウルトラマン』の怪獣の三分の一は、「過去の怪獣の、『改造』による使いまわし」であったが、成田のデザインと高山の造形は、そのハンディを感じさせないものであった。
1968年『ウルトラセブン』の途中で、成田が怪獣デザインを中途降板した後は、池谷仙克とコンビを組み、さらに名怪獣を作りつづける。成田とともに、この初期ウルトラ・シリーズの仕事で高山の名前は、特撮マニアの間で神話的なものとなった。
円谷プロでは、1972年には、初の劇場オリジナル映画『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』の怪獣造形も担当。
また、1971年には円谷プロ出身者が宣弘社で製作し、佐々木守がメイン・ライターであった異色作「シルバー仮面」で、池谷のデザインで怪獣造形を担当。
また、第二次怪獣ブームをおこしたピープロ(東宝時代に知り合っていたうしおそうじが社長)作品の造形を、続けて担当することになる。1971年には『スペクトルマン』の造形を担当。おどろおどろとした、「公害怪獣」を製作した。1972年には『怪傑ライオン丸』を担当。毛やヒゲの多いライオン丸の造形も見事であり、また、ライバル役「タイガー・ジョー」も人気を集めた。以降、ピープロの「猫系ヒーロー」作品の、『風雲ライオン丸』『鉄人タイガーセブン』『冒険ロックバット』と造形を担当した。
高山の工房で怪獣製作を手伝う、美大生のアシスタント達には「これは、生き物を作っているのだからそのつもりで。」と指示していたという。高山は、報酬の大小で手を抜くことはなかった。また、怪獣造形で多忙な中でも、かかさず絵や彫刻作品を作っていたという。
1979年、日仏合作として企画されたがパイロット版のみで終わった「シルバー・ジャガー」を最後に、怪獣造形の世界から離れ、シュール・リアルな絵画作品を描く。
だが、死去の半年前に、30cmのサイズの怪獣のミニチュア7体(レッドキング、ガラモン、ペギラ、ラゴン、カネゴン、ケムール人、ギエロン星獣)を製作する。妻がその理由を聞くと「残るものは、同じだから」と答えたという。
1982年、肝臓癌のため、55歳の若さで死去。
2001年には、練馬区立美術館で、学芸員の土方明司の企画により「高山良策の世界展」が開催された。
また、高山の遺品のうちの怪獣関係の品は、M1号代表の西村祐次がひきとり、それをもとに高山怪獣の精巧なレプリカが制作されている。
[編集] 作品集
- 『高山良策の世界展』(練馬区立美術館)
[編集] 関連作品
- 『怪獣のあけぼの』(DVD)- Gyaoでの放映用に制作された。高山の生涯と作品について、関係者にインタビューしたドキュメンタリー作品。