高原城
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高原城(たかはるじょう)は現在の宮崎県西諸県郡高原町にあった山城。別名を松ヶ城。
[編集] 概要
全方位とも、険峻で深い谷に囲まれた天然の要害で、特に西方、北方、東方は深い谷がめぐり南面の一部のみが平地につながっている。 本丸・二の丸・三の丸・取添丸の間に深い濠をめぐらせてあった。
現在は私有地であるらしく、指標などもなく場所を特定するのは難しい。
[編集] 歴史
元々、島津家の城であったが、伊東氏が掠め取り、天文22年(1553年)に北原氏の城となる。しかし、弘治永禄の頃(1555年~1569年)北原氏と伊東氏の合戦を経て、再び伊東氏の城となる。
再度の伊東氏領有の際の城主は福永源左衛門であったが、木崎原の戦いで伊東氏が島津氏に大敗すると、守りを固めるために伊東勘解由を城主に据えた。
天正4年(1576年)8月19日、島津義久が率いる30000の大軍勢から攻撃を受ける。島津軍は城下の防塁を払い除け、火を放って啓開作業を行った。そのため城兵は城に籠って支えざるを得なくなる。そのとき高原城には370余人ほどの兵しかいなかった。島津軍は二の門まで破ったが三の門で激しい抵抗に遭い多数の死傷者を出すに至ったため、義久は無理な攻撃を控え城の水の手を絶たせた。翌20日は両軍の弓矢による攻撃が行われ、島津軍はここで鉄砲も使用している。双方に100人近くの死傷者が出たという。伊東義祐は城兵を救うべく援軍を出したが、圧倒的な兵数差に臆し一戦も行わなかった。翌21日、水に窮した城兵は矢文にて和議を申し入れた。22日に交渉が行われ、23日に開城。伊東勘解由ら城兵170余人は野尻方面へ退却し、義久は凱旋入城を果たしたとされる。これにより高原城は再び島津氏の所有に帰した。その後は上原尚近が城主に任命され、上原はそのまま高原地頭にも任命される。