飛騨川バス転落事故
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飛騨川バス転落事故(ひだがわバスてんらくじこ)とは1968年(昭和43年)8月18日、岐阜県加茂郡白川町の国道41号、中部電力上麻生ダム付近において乗鞍岳へ向かっていた観光バス15台のうち、岡崎観光自動車[1]所有の2台のバスが、集中豪雨に伴う土砂崩れに巻き込まれて増水していた飛騨川に転落し、乗員・乗客107名のうち104名が死亡した事故である。日本のバス事故史上における最悪の事故となった。
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バスツアーの概要
犠牲者となった観光バスの乗客は、名古屋市の団地新聞社・株式会社奥様ジャーナルが主催し名鉄観光が協賛した「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」というツアーの参加者だった。お盆休みの週末という日程と、乗鞍岳からの御来光や北アルプスのパノラマを楽しめる家族旅行むきの企画ということもあって申し込み数は主催者側の予想を上回り、名古屋市内の団地を中心に750人以上の応募が集まった。
貸切バスは、岡崎観光自動車をメインに4社から手配された。各団地から乗客たちを拾って愛知県犬山市の成田山名古屋別院大聖寺駐車場に8月17日(土)午後9時30分にいったん集合したのち、車列を連ねて出発し、岐阜県に入って飛騨川沿いに国道41号を北上し、高山、平湯を経由して、翌朝4時30分に標高3000メートル近い乗鞍スカイライン畳平で御来光を拝み、夕方に犬山へ戻って各団地で解散という予定だった。車中泊とはいえ片道160キロ。人気のコースで運転手たちにとっては通い慣れた道だった。
事故当時の天候
8月17日の名古屋周辺は、日本海を時速50キロで北上する台風7号の影響で、朝からにわか雨の降るぐずついた天気だった。岐阜地方気象台は午前8時30分に大雨洪水雷雨注意報を発令していたが、午後に入って小降りになり、ところによっては晴れ間も見えてきたので、レーダー観測とも照らし合わせて、午後5時15分に注意報を解除する。さらに午後7時前に放送された天気予報は、岐阜県の天気は好転し翌朝は晴れるだろうと報じた。
しかしながら、北海道西側の沖合い400キロまで進んだ台風7号崩れの温帯低気圧から、南西に延びた寒冷前線が南下し、さらにそれに向かって太平洋上の高気圧から暖かい湿った空気(湿舌)が入り込んだため、夜に入って岐阜県中部上空の大気は非常に不安定な状態となり、分水嶺南側を中心に直径数キロ程度の局地的かつ濃密な積乱雲が多数発生しはじめる。これをとらえた富士山レーダーからの連絡を受け、気象台は午後8時に雷雨注意報[2]を発令し、午後10時30分には大雨警報に切り替えたが、郡上郡美並村[3]で1時間雨量114ミリ、白川町三川小学校で100ミリを越えるなど、過去の記録を大きく上回る集中豪雨となった。日付が変わる前後から、家屋の浸水や土砂崩れ、復旧に一ヶ月近くかかった国鉄[4]高山本線上麻生駅~白川口駅間の線路崩落など、岐阜県内各地で被害が続出しはじめる。
ツアーの主催者(奥様ジャーナル社長)は、午後7時の予報を気象台に問い合わせたうえで、予定通りツアーを決行したが、1時間後の8時に発令された注意報、さらには午後10時30分の警報は把握できなかった。注意報が解除されたのは、午後5時15分から午後8時までの2時間45分に過ぎなかった。当時はリアルタイムで気象情報を把握するのは不可能で、車載のラジオも夜間に流すことは難しかったと思われるが、これが悲劇を生んだ。
事故発生
一行は、一号車から十六号車まで15台[5]の車列を連ねて午後10時過ぎに犬山を出発した。乗客725名、主催者・運転手・添乗員48名のあわせて773名が乗車していた。出発直後から激しい雷雨に遭遇したが、午前0時前後に休憩地である益田郡金山町[6]のモーテル飛騨に、ほぼ予定通りに到着する。しかし、毎時50ミリ以上という猛烈な豪雨にくわえ、前方の道路状況が思わしくないとの情報もあり、主催者と添乗員・運転手たちが協議した結果、ツアーの続行を断念して一週間延期することとし、名古屋まで引き返すこととなった。運の悪いことに、結果的には突破してきた行程中の最危険地帯に、わざわざ逆戻りすることとなる。
再び主催者の乗る一号車を先頭に、車列は激しさを増した雷雨をおかして帰路についたが、白川口駅付近にある飛泉橋で、五号車の運転手が飛騨川の水位を警戒していた地元の消防団に呼び止められ、走行中止を勧告される。しかし、同じ岡崎観光自動車に所属する一号車から三号車がすでに橋を通過していたので追尾することとし、僚車の六号車・七号車も続いた。一方、別会社に属する八号車から十六号車は警告に応じて白川口駅前で待機し、深夜の豪雨をやり過ごして無事に朝を迎えている。
名古屋に向けて走行を続けた岡崎観光自動車の6台のバスは合流し、上麻生ダムを500メートルほど過ぎて飛水峡上流の白川町河岐下山地区まで進む。ところが、落石のために道路が寸断されていた。大型車ではUターン不能の箇所だったため、一号車から五号車まで順次バックで移動を開始し、五号車が先頭になった。ところが、今度は後方で土砂崩れが発生し、午前1時30分頃には猛烈な雷雨のなかで完全に立ち往生の状態となる。各車の補助運転手は車外に出てヘッドライトを外し、崖を照射して警戒にあたった。また、後方の様子を伝えるために三号車の運転手が先頭になった五号車に向かう一方、六号車の運転手も対策を協議するため七号車に移動していた。
立ち往生となってから40分ほどたった午前2時11分(時刻は犠牲者の腕時計で確認)、高さ100メートル、幅30メートルにわたる大規模な土砂崩れが発生した。ダンプカーにして約250台分の土石流は急斜面を滑り落ち、五号車から七号車を直撃した。横滑りしながらもガードレールに運良く抑えられた七号車の目前で、五号車と六号車は赤いテールランプの光を引きながら、15メートル下の増水した飛騨川の水面にゆっくり転落していった。七号車の乗客は就寝している人が多かったが、大音響と震動に驚いて総立ちとなり、さらに大惨事を目の当たりにして騒然となった。生還した五号車の運転手は、転落の瞬間に車内の子供たちがあげた「アーッ」という叫び声が耳から離れないと証言している。六号車の運転手は、連絡のため入っていた七号車から自車の最期を目撃し、同じく連絡のため五号車にいた三号車の運転手は消息を絶った。
難を免れた運転手と添乗員たちは、乗客を車外に誘導して安全確保に努める一方、4人が救助を求めるため対岸の上麻生ダム見張所に向かった。彼らは堆積した土砂を乗り越え、豪雨下の漆黒の道をたどってダム見張所にたどり着いた。この時見張所には当直の発電所員がいたが、直ちに電力通信線を使って上麻生発電所に連絡。二次災害を防ぐため地元消防団員と共にバスに残っていた乗客を誘導し、ダム見張所や水門機械室、資材倉庫に収容して避難させた。
一報を受けた下流の上麻生発電所経由で岐阜県警加茂警察署に通報が届いたのは、転落から3時間29分経過した午前5時40分だった。さっそく朝のニュースで全国に報道され、世間の耳目は飛騨川に集中した。
水位零作戦
通報をうけ、加茂警察署他4警察署機動隊、各地域の消防団、さらには陸上自衛隊第35普通科連隊[7]などが岐阜県から災害派遣要請を受けて救助活動にあたる。また上麻生ダム・発電所を管理する中部電力は岐阜支店長を本部長として延べ380人の社員を動員し下流の川辺発電所に対策本部を設置。発電所通信設備の活用や管理用に使用する舟艇を350艘動員、さらに上麻生発電所の全出力運転を行ってダム湖の水位を下げて放流を抑えるなど、捜索活動を側面支援した。
だがこの付近は飛騨木曽川国定公園にも指定されている名勝・飛水峡の上流部にあたり、両岸が深く険しく切り立った峡谷を形成していた。事故翌日の8月19日10時30分ごろ、転落現場から約300メートル下流で五号車がタイヤを上に無残に押しつぶされた状態で発見され、砂だらけの車内から3名の子供の遺体が収容された。このほか転落現場周辺で23名の遺体が発見されたが、六号車や他の行方不明者は発見できなかった。普段から日本有数の急流ではあるが、豪雨に伴う余りにも激しい飛騨川の流れの前に救助活動は難航。この間行方不明者の家族は早急な車体回収と引き揚げ要請を行った。
中部電力は8月21日、社内緊急会議を開き行方不明者捜索を迅速に行うために、ダム管理上前代未聞の措置を講じる。それは上麻生ダムと上麻生発電所のみならず、上流にある名倉発電所と名倉ダムも活用して上麻生ダムの放流を停止し、水の引いたわずかな時間を利用してまだ発見されていない六号車の捜索を行わせるというものであった。これは上麻生ダム直下の飛騨川の水位をゼロにするということから、「水位零(ゼロ)作戦」と名付けられた。この「水位零作戦」は21日深夜、県・警察・消防・自衛隊との合同連絡会議において提案され、翌22日朝8時00分を以って作戦が決行されることになった。この作戦が可能であるわけは上流の名倉発電所が発電をしている限りは名倉ダムの満水到達時刻を遅らせられること、名倉ダムから上麻生ダム間の飛騨川は蛇行を繰り返すため洪水到達時間までおよそ一時間掛かること、上麻生ダムのゲートが莫大な水圧に耐えられる構造であることが挙げられる。ただし上流で雨が降れば、この作戦は遂行できない。
これに先立ってバスを引き揚げるための重機を操作するため陸上自衛隊豊川駐屯地から重車両部隊が、また水中の捜索に対応するため海上自衛隊横須賀基地の潜水部隊が招集され、夜を徹して現場に急行。朝8時00分、上流部で降雨がないことを確認し岐阜支店長の指揮下で作戦が始まった。以下は作戦の概要を時系列で記載する。
- 8:00 上麻生ダムのゲートを全開にして、上麻生ダム湖の貯水を全て放流する。同時に上流の名倉発電所では全出力運転を行い、名倉ダム湖の貯水を可能な限り使用し下流への放水を可能な限り抑える。
- 9:50 名倉発電所の運転を急停止し、名倉ダムからの放流を開始する。
- 10:00 上麻生ダムのゲートを全閉にして、貯水を開始する。同時に上麻生発電所はダム湖から可能な限り取水を行い全出力運転を行い、ダム湖の満水を少しでも遅らせる。
このゲート全閉によってダム直下流の飛騨川は流量がゼロとなって、ため池のような状態になった。そして六号車は転落地点から900メートル下流の川底から半分砂に埋もれ岩に引っかかった状態で見つかる。30分後の10時30分、ダム湖が満水になり危険な状態となったので捜索隊全員に退避命令を下し、再度上麻生ダムは放流を始めた。上麻生ダムは発電専用ダムであり、洪水調節機能は持たない。しかも1925年(大正15年)完成の古いダム[8]である上総貯水容量はわずか24万トンしかなく、豪雨時にはいつもゲートを全開にしていた。玄倉川水難事故の際にも取り沙汰されたが、洪水調節機能がなく貯水容量の少ないダムの場合、増水時におけるゲート閉鎖はダム本体の決壊という重大な影響を及ぼす可能性がある。しかし飛騨川バス転落事故に際しては緊急事態であったこと、大正時代より飛騨川流域一貫開発計画を手掛けて飛騨川の地形や水文について詳細なデータを持ち、かつ水力発電のメカニズムを最大限に発揮できると考えたことで中部電力はこの「水位零作戦」を決行した。もはや生存者の発見は絶望的とはいえ、あくまで人命救助のためという、いかにも日本的な考え方による異例の緊急措置であったが、難航する捜索活動に大きく貢献した。
この「水位零作戦」は翌8月23日と24日にも再度実施され、ようやく六号車の引き揚げに成功する。しかし、車体はひらがなの「く」の字に折れ曲がり、屋根も座席等もえぐりとられて見る影もなく、子供の1遺体が発見されただけだった。濁流による水圧がどれほどすさまじいものだったかを、あらためて捜索隊に見せつけた。下流の捜索が必要として今度は川辺ダムの人造湖である飛水湖(ひすいこ)に捜索範囲が拡大したが、中部電力は川辺ダムの貯水を全放流して飛水湖を空にした。1937年(昭和12年)に川辺ダムが完成してから初の試みであった。空になった飛水湖に捜索隊1,000名が入って捜索を行った。さらに関西電力や農林省東海農政局にも捜索協力を要請し、木曽川と飛騨川が合流する地点に建設された今渡ダムやその下流の犬山頭首工も全放流を行い、捜索活動を側面支援した。
被害と影響
行方不明者はすべて急流渦巻く飛騨川に投げ出されており、事故の翌日には知多半島にまで遺体が漂着したため、捜索は下流の広い範囲に拡大されていった。最終的には、陸上・海上・航空自衛隊員9,141名を始め、警察・消防、バス会社・グループ会社の関係者など、のべ36,683名が投入され、飛騨川・木曽川、さらには伊勢湾まで1か月以上にわたり捜索が続けられたが難航する。魚が死体を食っているという根拠のない風評被害で伊勢湾の漁業者が打撃を受けるほどだった。多くの遺体は土砂に埋もれており、土砂を重機ですくっては消防車の高圧放水で洗い流すという措置までとられたが、最終的には9名の遺体が未回収となっている。収容された遺体も腕だけが発見されたりするなど損傷が激しく、DNA鑑定のない時代でもあり身元特定は困難を極め、取り違えによるトラブルまで起きた。
結局、2台のバスに乗っていた3歳から69歳までの乗員・乗客107名のうち、転落の途中で割れた窓ガラスから投げ出されて立ち木に引っかかるなどして奇跡的に生還できたのは、当時30歳だった5号車の運転手と21歳の添乗員、家族4人でツアーに参加していた14歳の男子中学生のわずか3名で、死者104名とバス事故史上最悪の惨事となった。
乗客は大幸住宅、仲田住宅、千種東住宅、若水住宅、引山住宅、天神下住宅の団地住民で、ファミリー向けのツアーだったことから、一家全滅が4家族発生している。そのうち市営引山住宅の3家族は、いずれも旧満州からの引揚者だったが、戦後の混乱が治まり、高度経済成長のなかで、ようやく家族で旅行を楽しめるようになった本格的旅行ブームのなかでの大惨事だった。この時のエピソードとして、仙台から帰省していた家族3人が事故に遭遇し遺体確認に訪れた男性が、事故現場付近で発見された女の子の遺体を50メートル上の国道41号から目撃、自分の子供と確認するや一気に崖を駆け下りて遺体に抱きつき号泣したという新聞記者の目撃談がある。この時周りにいた人間はこの光景を見てもらい泣きをしたという。この男性のように家族をすべて失った人も少なくない。乗客で唯一生還した中学生も、両親と姉を失っている。現場付近で行われた一周忌の慰霊祭で母親の面影を慕う追悼文を朗読した。
天心白菊の塔
1969年(昭和44年)8月18日、一周忌を迎えて事故現場近くの国道41号脇に慰霊のため「天心白菊の塔」が建立された。題字は当時の内閣総理大臣佐藤栄作による。塔の脇にある碑文には次の通り記されている。
昭和43年8月17日夜半から18日未明にかけこの中濃地方を襲った豪雨の為、41号線上で避難していた観光バスが、山間から流出してきた土石流に押し流され、濁流渦巻く飛騨川に転落水没し、一瞬にして命を奪われた104名の魂と、時を同じくしてこの地方で豪雨災害のため亡くなられた14名の魂を偲ぶために、全国からの浄財で建立された。
偶然にも、この日に現場付近で白骨化した遺体が発見されている。事故から40年近くたった現在も「水位零作戦」で捜索活動の支援を行った中部電力が管理に当たっており、上麻生発電所職員によって清掃・献花が月例行事として行われている。
対策
事故の責任をめぐり、不可抗力の天災か、主催者および旅行会社、バス会社の判断ミスによる人災かが争点となった。当時第2次佐藤内閣の内閣総理大臣であった佐藤栄作は事故発生の翌日対策に乗り出し、「岐阜バス事故対策連絡会」を内閣に設置。道路管理には瑕疵(かし)がないことを前提にした上で、自動車損害賠償責任保険(自賠責)の適用を軸とした遺族補償が可能かどうかを検討させた。だが現地を調査した損害保険会社調査団や刑事責任の有無について現場検証を行った岐阜県警は事故の原因となったがけ崩れは不可抗力であり、バス会社への業務上過失致死傷罪は問えず、自賠責保険は「無責」として支払いの対象外であるとの認識が下された。この岐阜県警の判断は9月26日に国家公安委員会が追認している。また岐阜地方検察庁も不起訴とした。
しかし内閣は交通行政の主務官庁である運輸省に命じて独自の調査を行い、その結果運輸大臣であった中曽根康弘が10月11日に見解をまとめて閣議で報告した。すなわち自賠責法第三条における完全無責の条件は業務上の過失がないことを完全に証明できた場合にのみ適用され、飛騨川バス転落事故の場合は運転を行った岡崎観光自動車が事故発生を未然に防ぐための注意義務に欠けていたため、業務上過失責任は立証されるとして自賠責の対象とするべきであるとの結論であった。この運輸省の結論は閣議で承認され、四日後の10月15日より特例での自賠責保険支払いが殉職した運転手を除く全遺族に支払われることとなった。またこの一件は後に道路施設賠償責任保険が誕生する契機にもなった。
一方遺族は10月に「飛騨川バス事故遺族会」を結成。天候が不順であるにもかかわらずツアーを決行した主催者の奥様ジャーナルと後援の名鉄観光、および運転を担当した岡崎観光自動車の三者に対して損害賠償を求めた。交渉は半年近くに及んだが翌1969年(昭和44年)3月9日、総額4,090万円(当時の金額)での補償案に合意し、示談が成立した。一方で国が当初から道路管理は適正と主張していたことに対して不満を持っていた遺族会は、国道41号の整備が不良であるために起きた人災であるとして国の国道管理に対する責任を問うため、一周忌に併せて開かれた遺族会において訴訟を行うことを満場一致で採択。総額6億5,000万円の国家賠償を求める訴訟を名古屋地方裁判所に起こした(飛騨川バス転落事故訴訟)。名古屋地裁は1973年(昭和48年)3月30日の第一審判決において、「国の過失六割、不可抗力四割」と認定して約9,300万円の賠償を国に求める判決が下したが、原告の遺族会はこれを不服として控訴した。1974年(昭和49年)11月20日の名古屋高等裁判所の控訴審判決は原告側主張を全面的に認め、国に約4億円の支払いを命じている。国側は上告せず、結審した。
この事故は多くの教訓を残したが、特に災害時における国道の防災体制が整備される契機となった。事故の翌月には全国の国道で総点検が実施されていたがこれは後に「道路防災点検」として制度化され、五年ごとに実施されるようになった。また雨量にもとづく事前通行規制も制度化され、一定量以上の降水量が記録された場合にはゲートを閉じて国道を通行止めにする対策が採られた。この雨量規制は現在は国道だけでなく都道府県道など全ての道路において、沿線に常住人口がいない山岳部の区間で実施されている。現場の国道41号は雨量が80ミリを超えた場合、加茂郡七宗町中麻生の上麻生橋から白川町の白川口までが通行止めになると定められている。なお、この基準は道路や区間により異なる。
事故の全経過
年 | 月日 | 時刻 | 動き |
---|---|---|---|
1968年 (昭和43年) |
8月17日 | 8:30 | 岐阜地方気象台、岐阜県下に大雨洪水雷注意報を発令。 |
17:15 | 岐阜地方気象台、岐阜県下の大雨洪水雷注意報を解除。 | ||
21:30 | ツアー一行、愛知県犬山市の成田山名古屋別院大聖寺に集合。 | ||
22:00 | ツアー一行、犬山を出発。 | ||
22:30 | 岐阜地方気象台、岐阜県下に大雨警報を発令。 | ||
23:00 | 加茂郡白川町(事故現場近く)三川小学校観測地点で時間雨量が100ミリを超える。国道41号、各所で寸断される。 | ||
8月18日 | 0:00 | ツアー一行、中継地の岐阜県益田郡金山町(現在の下呂市)に到着。悪天候により引き返すことを決定。 | |
1:31 | 中部電力上麻生ダム付近でがけ崩れ発生、一号車から七号車までの六台が国道41号で立ち往生する。 | ||
2:11 | 五号車・六号車、がけ崩れの直撃を受け飛騨川に転落。飛騨川バス転落事故発生。 | ||
運転手ら、上麻生ダム見張所に救援要請。見張所職員と消防団員、上麻生発電所に通報し残余のバス乗客を避難させる。 | |||
5:40 | 上麻生発電所、岐阜県警加茂警察署に事故第一報を通報。 | ||
警察、消防が現場に急行。岐阜県知事、陸上自衛隊に災害派遣要請を行い、守山駐屯地から自衛隊員が出動。 | |||
8月19日 | 中部電力、川辺発電所に対策本部を設置。上麻生発電所の全出力運転を行い飛騨川の水位を下げる。 | ||
10:30 | 五号車、河岸の中段で発見。26遺体を収容。 | ||
知多半島に事故被害者の遺体が漂着する。 | |||
8月21日 | 0:00 | 中部電力、「水位零作戦」を捜索本部連絡会議で提案、了承される。 | |
陸上自衛隊豊川駐屯地、海上自衛隊横須賀基地より六号車引き揚げのための増援部隊が招集される。 | |||
8月22日 | 8:00 | 第一次「水位零作戦」が開始される。上麻生ダム放流・名倉発電所全出力運転開始。 | |
9:50 | 名倉発電所運転停止・名倉ダム放流開始。 | ||
10:00 | 上麻生ダム放流停止。飛騨川の水量がゼロになり、六号車が川底から発見される。 | ||
10:30 | 上麻生ダム満水になり、再び放流開始。 | ||
8月23日 | 第二次「水位零作戦」が開始される。 | ||
8月24日 | 第三次「水位零作戦」が開始される。六号車が収容され、1遺体が発見される。 | ||
下流にある飛水湖の捜索開始。中部電力、川辺ダムの貯水を全放流する。 | |||
8月25日 | 木曽川へ捜索を拡大。関西電力、要請に応じ今渡ダムの貯水を全放流する。農林省東海農政局も犬山頭首工の貯水を全放流する。 | ||
9月 | 伊勢湾まで捜索を拡大。最終的に95遺体を収容するが、9遺体は発見できず。 | ||
10月11日 | 第2次佐藤内閣の運輸大臣・中曽根康弘、自賠責による特例補償を行う方針を閣議で報告、閣議これを了承する。 | ||
10月15日 | 各損害保険会社、閣議の決定に基づき遺族に自賠責保険の支払いを開始する。 | ||
10月18日 | 秩父宮妃、慰霊献花のため現場を訪問。 | ||
10月 | 被害者遺族、「飛騨川バス事故遺族会」を結成。 | ||
1969年 (昭和44年) |
3月9日 | 第五回遺族会総会開催。主催者側(奥様ジャーナル・岡崎観光自動車・名鉄観光)との示談が成立する。 | |
8月18日 | 事故現場に天心白菊の塔が建立され、一周忌が執り行われる。この際1遺体が発見される。 | ||
8月 | 遺族会、国の道路行政の責任を問い行政訴訟(飛騨川バス転落事故訴訟)を名古屋地方裁判所に起こす。 | ||
1973年 (昭和48年) |
3月30日 | 事故訴訟の名古屋地方裁判所第一審判決が下る。原告・被告双方が判決を不服として名古屋高等裁判所に控訴する。 | |
1974年 (昭和49年) |
11月20日 | 事故訴訟の名古屋高等裁判所控訴審判決で原告遺族全面勝訴。国は上告せず補償金を支払い、判決が確定。 |
脚注
参考文献
- 中部電力株式会社 「飛騨川 流域の文化と電力」:1979年11月
- 岐阜県庁ホームページ 「飛騨川バス転落事故」
- 新潮45第26巻2号 「飛騨川バス転落事故104人死亡の惨劇」:2007年2月
- 日新火災 飛騨川バス事故と日新火災
- 「ブンヤのたわ言」(産経新聞記者による事故取材体験談)