韓猛
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韓猛(かん もう、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将。
『三国志』の注釈者裴松之によると、さまざまな名が伝わっており、他に韓荀(荀の字の下に大が付く場合もある)、韓若という別称があるが、韓猛も含めてどれが正しい名かは分からないという。本記事では便宜的に、『三国演義』でも採用されており、一般に最も知られていると思われる「韓猛」をとる。
[編集] 正史の事跡
姓名 | 韓猛(または韓荀、韓若) |
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読み・ピンイン | かんもう〔Hán Měng〕
(またはかんじゅん〔Han Xún〕、 |
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 〔不詳〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 袁紹 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
袁紹配下の将。曹操の参謀荀攸の評によれば、韓猛は「向こう意気が強くて敵を軽んじる男」ということであった。
建安5年(200年)の官渡の戦いで、曹操軍の西方の交通を遮断するよう袁紹から命じられたが、雞洛山で曹操の部将曹仁に撃破された。さらに、袁紹軍の兵糧の運搬を警護する役目を担ったが、荀攸の計略により、徐晃・史渙(『三国志』諸夏侯曹伝によると、曹仁も)に妨害され、輸送車を焼き払われる。その後、韓猛は史書に登場しない。
[編集] 物語中の韓猛
『三国演義』では、韓猛の名が採用されている。韓猛の兵糧輸送警護について曹操軍は、史渙が捕虜から情報を得て判明したとしている。史実同様に徐晃・史渙の攻撃を受けて輸送車を焼き払われた。さらに、怒った袁紹に韓猛は処刑されそうになったが、諸将のとりなしで命は助かり、雑兵に降格させられてしまう。