陸羯南
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陸 羯南(くが かつなん、1857年11月30日(安政4年10月14日) - 1907年(明治40年)9月2日)は、日本・明治期の国民主義(民族主義)的ジャーナリスト。本名、実(みのる)。弘前藩藩医・中田謙斎の長男(次男説もある)。
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[編集] 生涯
郷里の東奥義塾を経て、宮城師範学校に入学するが、薩摩出身の校長の横暴に抗議、退校処分となる。次いで、上京して司法省法学校に転校。ここでも賄征伐事件に関連して、校長の態度に反発し退学。ここでの同窓生に、原敬がいる。この頃親戚の陸家を再興し、陸姓となる(徴兵逃れの措置と言う説と、唐の詩人陸宣公に倣ったという説がある)。
北海道に渡ったのち再度上京し、フランス語が堪能だったことから太政官文書局書記局員となる。ここで井上毅らと知り合う。1885年(明治18年)にはフランスの保守主義者ジョゼフ・ド・メーストルの『主権についての研究』を翻訳、『主権原論』として出版。しかし1887年(明治20年)、政府の条約改正・欧化政策に反対して退官。何がなんでも西欧列強に肩を並べたいという政府の方針に対し、日本の伝統に基づいた穏やかな近代化を提唱した。
[編集] 新聞「日本」
後に新聞の発行を決意し、1888年(明治21年)4月に「東京電報」という日刊新聞を創刊(東京電報は「商業電報」という新聞の改名)、翌年「日本」と改題、社長兼主筆として活躍した。羯南は、著書『近時政論考』の中で自身を国民主義という立場に規定し、新聞では社説を担当して国民精神の昂揚につとめた。彼の主張は、その新聞名から「日本主義」とも呼ばれる。官僚主義と藩閥政治の専制を攻撃する彼の社説・評論は論旨明快、多くの読者の支持を得た。
しかし一方で官僚の小村寿太郎や長州の品川弥二郎、三浦梧楼とは深い親交があった。閔妃殺害事件が起こったときも、親交のある三浦梧楼をかばってか、日本人に同情的な論調を掲載した。 「日本」には、いわゆる三面記事はなく、振り仮名抜きの漢文体という硬派の新聞であった。三宅雪嶺、杉浦重剛、長谷川如是閑など明治後期を代表する多くの思想家、言論人がこの新聞に集まり、近代ジャーナリズムのさきがけとなった。政府の不正・腐敗を糾弾する激しい論調は、しばしば発行停止処分を招き、その合計、230日にも達したほどだった。
このような反骨の政治新聞にも、狭いスペースながら文芸欄があった(また、発行停止処分の間収入を得るために「小日本」という小新聞を出していた。そこの責任者が後述の正岡子規である)。ここを拠りどころにして、明治の俳句・短歌の改革を成し遂げたのが、正岡子規である。晩年には激痛を伴う結核性カリエスを患った子規に対し、羯南は終生父のごとく接し、俳句・短歌論を励まし、病身を慰た。
硬骨な新聞であったことと、羯南の商売嫌いにより、「日本」は経営が苦しくなり、1906年(明治38年)羯南は病気を期に「日本」を引退。経営権を他者に譲り渡す。しかし元からの社員は新社長に反発。羯南もその利益主義に反対したことから、元からの社員は全員退社し、羯南の盟友三宅雪嶺の「日本人」に合流した。これにより「日本人」は「日本及日本人」と改題することになった。引退の翌年9月2日、鎌倉で没した。
[編集] 独立新聞
東京電報は経済欄が充実していた経済新聞であった。「日本」になっても、その欄は縮小されたが基本的に維持された。
新聞『日本』は谷干城や品川弥二郎、近衛篤麿と言った羯南と似たような意見を持つ政治家の寄付金によって成り立っていた部分が大きい。これは羯南が部数を取るための新聞作りを断固拒否したためである。羯南は新聞を「機関新聞」(公共機関や政党などの機関紙)、「営業新聞」(部数を売って儲けで運営する新聞)に分け、機関新聞は機関の主張をそのまま載せるだけであり、営業新聞は流行に追従するだけである、として両者とは違った己の主張をのべる「独立新聞」の必要性を強調した。また、徳富蘇峰とも親交があった。蘇峰は羯南を「存外策士である」と評している。
[編集] 主な著作
主な著作物に『近時政論考』『原政及国際論』などがあり、『羯南文録』『羯南文集』には、論文のほか詩歌の類も収録されている。みすず書房から「陸羯南全集」(全十巻)が刊行されている。