関山利一
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関山利一(せきやま りいち、明治42年(1909年)- 昭和45年(1970年)1月15日)は、囲碁の棋士。兵庫県出身、日本棋院、関西棋院所属、鈴木為次郎門下、実力制第1期本因坊利仙。関山利夫九段は子。利夫の妻の父は小山久義六段。倉橋正蔵八段は娘婿。関山利道九段、倉橋正行九段は孫。
[編集] 経歴
兵庫県尼崎市に生まれる。8歳のときに父盛利四段から碁の手ほどきを受け、恵下田栄芳(十六世井上因碩)に師事。1924年に上京して、鈴木為次郎門下となる。1926年に初段。1932年に時事新報の勝ち抜き戦で呉清源が18連勝した際に19人目として対戦し、関山が白番3目勝ちして、連勝ストッパーとなった。1938年六段。
1939年から開始された第1期本因坊戦で、六段級トーナメントを勝ち抜き、最終トーナメントに進出。七段級を加えた8名による最終トーナメント4回では、2位、1位、1回戦敗退、3位の成績で、合計順位1位となる。1941年2月から、同2位の加藤信七段と本因坊決定六番勝負を行い3勝3敗となり、予選1位の関山が本因坊位に就いて、本因坊利仙と号する。1942年七段。
1943年の第2期本因坊戦では橋本宇太郎の挑戦を受け、病体をおして六番勝負に臨む。第1局白番中押し負けの後の、7月7日からの第2局の三日目の朝、黒89手目を打ったところで倒れ、橋本が90手目を打ったところで打ち掛けとしたが、回復せず、棄権負けとなった。このため代理として弟子の梶原武雄が戦うという案も出されたが、個人選手権制の時代にそぐわないと却下されたエピソードが残る。
1949年から関西棋院に所属。1951年八段。1952年全本因坊全八段戦に参加し、岩本薫八段に半目負けを喫する。これが最後の公式手合となった。1958年に九段に推挙される。1970年に急性肺炎で死去。
大手合優勝7回(日本棋院)。門下には、梶原武雄、小山靖男、白石裕、及び実子の関山利夫ら。孫の利道も関西棋院九段であり、史上初めての親子三代でのプロ棋士。
[編集] 著作
- 『死活要点 囲碁上達の捷徑』
- 『後手の先手』三省堂 1942年
- 『囲碁金言の表裏』創元社 1956年
- 『置碁必修-手技定石』関西棋院 1961年
- 『しぼりの種々相』誠文堂新光社 1965年
- 『関山利一・半田道玄(現代囲碁大系13)』日本棋院 1979年
- 『傑作詰碁辞典』誠文堂新光社 1986年
- 関山の創作詰碁を関山利夫がまとめて出版したもの