長野稙藤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 永正元年(1504年) | |||
死没 | 永禄5年5月5日(1562年6月6日)? | |||
別名 | 金吾(幼名) | |||
戒名 | 青蓮院殿天覚常本大居士 | |||
官位 | 従五位下、宮内大輔 | |||
氏族 | 長野工藤氏 | |||
父母 | 父:長野通藤 | |||
子 | 長野藤定 |
長野 稙藤(ながの たねふじ)は、伊勢の戦国大名。長野工藤氏の第14代当主。
永正元年(1504年)、第13代当主・長野通藤の子として生まれる。享禄3年(1530年)に父が死去したため、家督を継いで第14代当主となる。伊勢の支配権をめぐって北畠晴具や北畠具教と争った。天文年間中期から後期にかけて、嫡男の長野藤定に家督を譲って隠居したものと思われるが、その後も藤定と共に軍を指揮し、政務を執っていた形跡があることなどから、藤定と共同統治を行なっていたものと推測される。
北畠氏との抗争はその後も続いたが、天文16年(1547年)から北畠晴具の侵攻に次第に押され気味となり、永禄元年(1558年)に北畠具教の次男・長野具藤を藤定の養子に迎え、家督を強制的に譲らされることで和睦した。実質的に長野氏は北畠氏に臣従したのである。
永禄5年(1562年)5月5日に死去。享年58(ただし、永禄4年1月8日(1561年1月23日)死去という説もある)。永禄5年説をとるのであれば、同日に嫡男の藤定も死去しているため、北畠氏に暗殺された可能性が高い。