長谷川等伯
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長谷川 等伯(はせがわ とうはく、天文8年(1539年) - 慶長15年2月24日(1610年3月19日))は、安土桃山時代~江戸時代初期の絵師。
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[編集] 略歴
1539年、能登国七尾(現・石川県七尾市)に生まれる[1]。はじめ長谷川信春を名乗り、仏画などを描いていたが、のち30歳を過ぎて上洛。当時の主流であった狩野派に対して強烈なライバル意識を持ち、独自の画風を確立。日蓮宗の熱心な信者であり、また千利休とも親交を持っていた。しかし、画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた長男・久蔵に先立たれ(長谷川派の勢力伸長を恐れた、狩野派による「暗殺」とも言われている。)、晩年には事故により利き腕である右手の自由を失うなど、私生活は不幸であった。後に徳川家康の要請により江戸に下向するが、江戸到着後2日目にして病死した。
[編集] 代表作
豊臣秀吉が幼くして亡くなった愛児・鶴松の追善のために建立した祥雲寺(廃寺)の金碧障壁画(その一部が現在、京都・智積院に伝存)が代表作。金碧障壁画制作のかたわら、中国・宋元の風を承けた水墨の作品もよくした。「松林図」屏風は、その伝来、製作の事情など不明な点が多いが(完成作でない下絵を屏風に仕立てたものだという説もある)、400年前の作品とは思えない斬新な作品である。極限にまで切り詰めた筆数と黒一色をもって、松林の空間的ひろがりと、そこにただよう湿潤な大気とを見事に表現している。長谷川等伯の残した作品の多くは、重要文化財に指定されている。
[編集] 40代以前
- 鬼子母神十羅刹女図(富山・大法寺)重要文化財 1564年
- 釈迦・多宝仏図(富山・大法寺)重要文化財 1564年
- 日蓮聖人像(富山・大法寺)重要文化財 1564年
- 三十番神図(富山・大法寺)重要文化財 1566年
- 日堯上人像(京都・本法寺)重要文化財 1572年
- 伝名和長年像(東京国立博物館)重要文化財
- 武田信玄像(高野山・成慶院)重要文化財
- 花鳥図屏風(岡山・妙覚寺)重要文化財
[編集] 50代
- 大徳寺山門天井画・柱絵(京都・大徳寺)重要文化財 1589年
- 旧三玄院襖絵(京都・高台寺円徳院)重要文化財 1589年頃
- 旧三玄院襖絵(楽美術館)重要文化財 1589年頃
- 旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)国宝 1593年頃
- 利休居士像(京都・不審庵)重要文化財 1595年
- 妙法尼像(京都・本法寺)重要文化財 1598年
- 松林図(東京国立博物館)国宝
- 金地院障壁画(京都・南禅寺金地院)重要文化財
- 竹林猿猴図屏風(承天閣美術館)重要文化財
- 枯木猿猴図(京都・妙心寺龍泉庵)重要文化財 京都国立博物館委託
- 樹下仙人図(京都・壬生寺)重要文化財
- 妙蓮寺障壁画(京都・妙蓮寺)重要文化財 京都国立博物館委託
[編集] 60代以後
- 大涅槃図(京都・本法寺)重要文化財 1599年
- 水墨山水図(京都・ 妙心寺隣華院)重要文化財 1599年
- 商山四晧図(京都・大徳寺真珠庵)重要文化財 1601年
- 蜆子猪頭図(京都・大徳寺真珠庵)重要文化財 1601年
- 禅機図(京都・南禅寺天授庵)重要文化財 1602年
- 商山四皓図(京都・南禅寺天授庵)重要文化財 1602年
- 龍虎図屏風(ボストン美術館)1606年
- 日通上人像(京都・本法寺)重要文化財 1608年
- 弁慶・昌俊図絵馬(京都・北野天満宮)重要文化財 1608年
- 波濤図(京都・禅林寺)重要文化財 京都国立博物館委託
- 烏鷺図屏風(川村記念美術館)重要文化財
[編集] その他
- 月下松林図屏風(個人蔵)第2の松林図といわれている。京都国立博物館委託。
[編集] 脚註
- ^ 中島純司著『長谷川等伯』(日本美術絵画全集 ; 10)集英社, 1974. p.122-123に「川口市 長谷川家系譜」ほか諸本を掲載