鍋島茂和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鍋島茂和(なべしま しげかず、慶長10年5月14日(1605年6月30日) - 寛文4年5月8日(1664年6月2日))は、江戸時代前期の第22代佐賀藩武雄領主(武雄領は佐賀藩の自治領)。文献の中では鍋島能登の名で呼ばれることが多い。墓は佐賀県武雄市の円応寺にある。
[編集] 経歴
慶長10年(1605年)、第21代武雄領主鍋島茂綱の子として生まれる。寛永14年(1637年)、父茂綱とともに島原の乱の鎮圧に出陣する。
家督相続時期は明らかではないが、慶安5年(1652年)に集大成された「鳥ノ子御帳」によれば、多久茂辰、諫早茂真とともに佐賀藩の請役(藩務を総理する執政職)に任じられており、この頃までには家督を相続していたものと考えられる。
なお、正保3年(1646年)、一子茂紀が誕生したため居所塚崎館の東北方向にあたる柏岳のふもとに彦山三所権現を勧請したと伝わっている。しかしながら、生母が正室(諫早直孝の娘)の御供の女中であったため、茂紀はひそかに諫早で養育され、承応元年(1652年)に武雄に呼び戻している。その後、寛文2年(1662年)に家督を茂紀に譲り隠居している。
[編集] 関連項目
|
|