鈴ヶ森刑場
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鈴ヶ森刑場(すずがもりけいじょう)は、東京都品川区南大井にかつて存在した刑場。江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)に設置されていた小塚原刑場、西の入口(甲州街道)沿いに設置されていた八王子市の大和田刑場(または中仙道の入口の板橋刑場とする説もある)とともに、江戸3大刑場といわれた。
「鈴ヶ森」という地名の由来は、この近くにある磐井神社の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったためという。
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[編集] 歴史
慶安4年(1651年)に開設される。間口40間(74m)、奥行き9間(16.2m)という広さがあり、閉鎖される明治4年(1871年)までの220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残されていない。当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されている。
当時の東海道沿いの、江戸の入り口とも言える場所にあるが、刑場設置当時浪人が増加し、それにともない浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、とくに浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられている。
最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安事件の首謀者のひとり丸橋忠弥であるとされている。反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑にされた。その後も、平井権八や天一坊、八百屋お七、白木屋お駒といった人物がここで処刑された。
[編集] 現在
東海道を継承している第一京浜(国道15号線)の傍らにあり、隣接する大経寺の境内となっている。刑場跡は自由に見学できる。
当時の広さはないが、現在も井戸や、火炙用の鉄柱や磔用の木柱を立てた礎石などが残されている。なお、礎石の位置はかってあった場所から移動され、供花台も設置されて、一種の供養碑の役割も果たしている。
[編集] ギャラリー
[編集] アクセス
- 国道15号線
- 京浜急行電鉄大森海岸駅から徒歩10分程度
- 首都高速道路1号羽田線鈴ヶ森出入口