遠藤允信
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時代 | 江戸時代後期(幕末)から明治時代 | |||
生誕 | 天保7年(1836年) | |||
死没 | 明治32年(1899年)4月20日 | |||
別名 | 文七郎(通称) | |||
主君 | 伊達慶邦 | |||
氏族 | 遠藤氏 | |||
子 | 遠藤速雄(次男) |
遠藤 允信(えんどう さねのぶ)は、江戸時代後期(幕末)の仙台藩の重臣。
遠藤氏は代々、伊達氏に仕える重臣として2000石を領していた。允信は安政元年(1854年)、家督を継いで藩主・伊達慶邦に仕える。允信は性格が短慮な上、気性が激しかったといわれ、文久2年(1862年)に伊達慶邦の命令で上洛すると尊王攘夷派に共感を覚え、帰国すると藩論を尊王攘夷でまとめ上げようとする。
ところが同じく重臣の但木土佐は佐幕派であり、允信の尊王攘夷に反対して対立する。允信は但木との政争に敗れて閉門の処分を受けた。戊辰戦争終結後に罪を許されて奉行に復帰し、仙台藩の戦後処理や版籍奉還などに貢献した。
晩年は宮司になっている。明治32年(1899年)に死去。享年64。