遠藤俊通
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遠藤 俊通(えんどう としみち、生没年不詳) 戦国時代の武将。宇喜多氏の家臣。喜三郎。父は遠藤与市左衛門、兄は遠藤秀清。官途は修理亮。備前赤坂郡正崎城、3000石を知行する。
遠藤氏の本貫地は遠江国であるが、生国の阿波国から備中国・美作国などを転々としたのち、宇喜多直家に仕える。信州から備中に西遷御家人として土着後数代を経て備中勢を率いる一大勢力となった三村氏に対し、正攻法での衝突は避けたい宇喜多直家から、1566年(永禄9年)三村家親暗殺の密命を受けて実行し、兄・又次郎秀清と共に見事成功させる。
遠藤兄弟は火縄銃の扱いに長けていた上、備中成羽時代に三村家親の顔を見知っていたため、宇喜多直家から刺客として選ばれたものである。宇喜多直家はもとより遠藤兄弟自身も容易に成功するとは思っておらず、遠藤兄弟より出された「失敗した折には生きて帰れぬであろうから、残された家族を宜しくお願いしたい」旨の申し出を直家が快諾したとのエピソードが伝えられている。
暗殺は美作攻略のため当地に進出していた三村一族が軍議を開いていた夜の興善寺にて実行された。首尾よく陣中に忍び込み、夜とはいえ狙いを定めて発砲し、見事三村家親に命中させたはずであったが、陣中に動揺の色は見られなかった。この点をいぶかしみつつも遠藤兄弟は銃弾命中の報告をしたが、宇喜多直家は当初暗殺成功を信じなかった。遠藤兄弟の放った銃弾は見事三村家親を射抜いていたものの、三村家重臣・三村親成が機転を利かして陣中を上手くまとめたため動揺が見られなかったもので、その後も三村親成に代行指揮された三村家の軍勢は整然としていたため、直家が成功を容易に信じなかったのも無理からぬ面があった。家親の体調不良を理由に備中松山へ引き上げた後、家親の死が発表されてようやく宇喜多直家は暗殺の成功を認めた。
これは杉谷善住坊が1570年(元亀元年)に織田信長を火縄銃により暗殺をしようと企んだ事例より4年は早い事例であり、銃による要人狙撃事件としては最も早かったともされている。